ワクチン接種副反応から脱した水曜日

宮崎弁の牧君。前回泊まったとき運良く唐戸魚市場の魚を買った夕方だった。9月1日が木曜日なので「泊めてください」と予約が入っていた。

きのう夕方(火曜日)農園にあらわれた。「車を置かせてください」とプラドを農園において「うちのトラックが迎えにきます」と部屋に腰をおろした。


本業とは別で運送業もやっているらしい。約2時間歓談したら4㌧トラックが迎えにきた。大阪で牧君をおろして名古屋方面に走るらしい。牧君がハンドルオペレーターで出て行った。


微熱と頭痛に腕の痛みがあり牧君を見送ってすぐに寝た。12時ごろ枕元の愛犬がゴソゴソ私を起こした。微熱と頭痛はなかった。


3時、スッキリ元気に起床。農園をスタートする5時までに部屋の掃除までできた。


6時に小月から配達が始まり、10時半に、山の田スペシャル「ちょぼハウス」30分滞在でスペシャルエッグなどやりとり。


長府から小月を経由して農園は3時前にゴールイン。


今夜と明晩は家内が泊まってくれるのでゴロゴロできる。明朝は唐戸魚市場6時半。


この季節ご来光が美しい。

写真は、萩市に向かう土曜日。山口市のホウベン山が染まったご来光。2019年8月31日のシャッター。

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副反応の火曜日なんとか終えた

コロナワクチン接種の副反応。

昨夜は頭痛で眠りが浅かった。きのう血圧測定で金メダルを出したので不安になり測った今朝6時に測定の数値。


頭痛と倦怠感に腕の痛み。7度を少しオーバーの微熱。解熱剤と体温計は持って出た。よほどの高熱になったら服用したいがそこまでの高熱ではない。


8時前、淳貴君からLINEで副反応を心配してくれるメールが届いた。嬉しかった。副反応でも山口市内の配達をやり遂げようと思った。


山口市の石材店、自宅で奥さまに「ご主人おってかね」と。ご主人が出てこられた「教えてください」で学んだこと。

築城の石垣はどうくみ上げたか。築城の場所に一番下の石を並べ、石の裏に土を盛る。その繰り返しで石工たちは反り返る、熊本城のような城壁もつくる。石垣の裏に土を盛りながら表側にも土を盛る。つまり城壁は土のサンドイッチで完成する。完成したら表側の土を取り去る。


エジプトのピラミッドもこの工法だとボクは思っている。


萩市三見の石橋も見事。石工の棟梁は木組みでアウトラインをつくり石を組み上げる。最後に「要石(キーストン)」を入れて完成。木組みを解いて石橋の全重量が「要石」にかかる完成式。棟梁は橋の真ん中に立つ。崩れたらもちろん棟梁は命で責任をとる。

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4回目のコロナワクチン接種を済ませた

4回目のコロナワクチン接種を午前中に済ませた。毎日多くの人と接する配達をしている。その人たちは「予防接種は危険がある」と言われる方々。とにかく早く接種を済ませたい皆さんと両方の声が聞こえる。


酸素吸入療法をされているお宅や透析をされている。そのようなご家族のお宅では、私がワクチン接種をしているかを真剣な眼差しで問われる。


三回を済ませ、接種に費やす時間と副反応を思うとき四回はやめようと思っていたが「四回目をされましたか」と聞かれたとき嘘の返事はできないので接種に行った。明日は腕の痛みがあると思うので左腕。解熱剤も処方してもらった。


笑い話


ワクチン接種を待つ待合室。私のような老人が間隔をとって座っていた。そこに老人男性が座った。電話を始めた「あのの、検査したら陽性じゃたいね」と大声。待合室から出て行く人は多かった。私はマスクをつけて座っていた「お、間違えた陰性じゃった」高笑い。


血圧測定のとき左手が看護婦さんのふくよかな胸にあたった。180と100の新記録が出た。老人でも。


「あだち美術館」に黒田善子さんの作品「モラ」が届いた。モラ美術館を個人でされている。その一点をご紹介させていただきます。

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日曜日も草刈りと配達を元気に終えました

明日、10時からの4回目ワクチン接種にむけての日曜日。

10時に指定病院に到着するためには9時に配達を切り上げなければならない。

きょうは9時以降、厚狭から宇部市内までの配達をした。あすの月曜日は早朝から配達をはじめて9時に終わる。


その変則的な日程で、配達準備などで昨夜は家内が農園に泊まった。朝食と弁当などをつくってくれるので早朝の散歩が愛犬とできた。6時前、東の空が紅色に一瞬染まった。時間にすると1分ぐらい。感動した。


8時半がレストラン「卯」集金。6時半から約90分草刈りをした。秋を思わせる風にあたりながら効率よく汗をかいた。


2時に農園ゴールイン。草刈り1時間で隣接の耕作放棄地はさっぱりした。


写真は次回の「あだち美術館」に載せようときのう撮ったなかの一枚。

Google検索で「島津恒三郎」をご覧いただくと私の日記がヒットする。


新南陽市美術博物館「ダヤン展」に9月2日の金曜日にスケジュールした。前夜は、海外100ヵ国以上を放浪した、宮崎弁の牧君が泊まりに来る。

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あだち美術館 更新しました

🔶「あだち美術館」更新おわりました。どうぞお入りください。

今回の企画は、配達のとき見かけたトラックアートをご覧ください。


きょうは新保さんからご案内いただいた「カルチャーどうもん」で10時から催される、郷土史家の松前先生「大村益次郎と木戸孝允」講座を聴講することが第一ミッション。

土曜日は5時から萩市に向かうが、配達先すべてのお客さまに「午後からまいります」とお伝えしている。


血液型Aだからとは言えないが、会場の「カルチャーどうもん」に近い屋根のあるパーキングをきのう現場確認しておいた。配達のたまごを積んで駐車するから。


8時前に農園を出て、山口市内で給油と「あだち美術館」の更新をローソンWi-Fiスポットでやれば10時と想定。6時から7時半まで草刈りをやり、シャワーで着替えて8時のスタート。それを3時に決めた。


ぼつぼつ草刈り終了のころ最悪の出来事。ゆきちゃんの鎖がハズレて私のまわりを走り消えた。山に入るとイノシシ罠がある。橋を渡って県道に出たら車の往来がある。それを放置して農園を出ることはできない。

汗を流すシャワーはあきらめた。ゆきちゃんを捕らえる秘策はある。着替えてからさがしたら鶏舎のまわりを走って板。静かに近づき「ゆきちゃん、座れ!」と声をかけたら座った。


松前先生の歴史講座は方言丸だしで脱線しながら、退屈させない話術でとても楽しく学べた。


11時半に終わり萩市に向かった。

ひとり外食は面白くないのでめったにやらない。コンビニでサンドイッチを買って食べなから萩市に向かった。


常茂恵旅館の裏口から厨房に入ったのは1時。厚東女将が偶然おられた「この時間ですか」と笑顔。20年前、女将と配達時間を決めて契約したとき。配達時間は7時となっていた。冬場でも凍てついた雲雀峠を下り7時までに必ずお届けしていた。

「はじめて延着しました!料理長には連絡しています」と頭をさげた。


月曜日のコロナワクチン4回目接種。明日の日曜日は月曜日の半分を配達する。接種のあとは安静よりせっかく時間があいたので周南市美術博物館「ダヤン展」に足をのばそうかと思っている。


副反応は火曜日。

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高齢者講習会「運転」・散髪・草刈りをおえた

金曜日の予定。

8時、小郡の理髪店に一番乗り。9時半、家内の愛車のオイルとエレメント交換。10時50分受付で「高齢者講習(湯田自動車学校)」2時間講習。それを済ませたら自動車学校のまん前が「温泉の森」ここでランチと風呂でスッキリ疲れをながす。


「高齢者講習」までは予定どおりにはこんだ。

さて、温泉はまん前にある。今からどこかで食べて農園に戻れば2時過ぎには着ける。高温多湿で農園内外の雑草は勢いを増している。


明日の土曜日、午前10時から新保さんのご縁で知り合った郷土史家、松前先生の「大村益次郎と木戸孝允」の聴講申込みを済ませている。

いつもは早朝6時からお届けしている萩市から長門市、美祢市のお客さまに午後から配達のお願いをしている。つまり、明日は草刈りする時間がないかもわからない。


日曜日。月曜日の午前10時からコロナワクチン4回目接種で、日曜日の半日は月曜日の配達で走る。いろいろ考えると、草刈りをするには「きょう」がベスト。温泉を楽しむことはお預けで農園に2時に戻り4時まで草刈りマシン「ハンマーナイフ」を2時間使ってかなり広い面積を刈った。相当の汗をかいた。


「掲示板」に、きょうのFacebook投稿一枚を載せました。


写真は、向かって左は加奈ちゃん。真ん中が「のんちゃん」ママの中野摩利子「まりちゃん」。右は「あだち美術館」に何度か写真を投稿くださった樋口真由美さん。中野さんと樋口さんは従姉。


「まりちゃん」は20数年前、農園を始めたころ、もちろん独身ギャルだった。大勢のギャルたちと何度も農園宴会に来てくれ歓談した。

特技は「大喰い」で、食べられたらタダの店の道場破りの伝説を積み上げている。けれども、今も昔もエステの「まりちゃん」。

次女の「のんちゃん」が空手の大会で鹿児島に行く。それを家族旅行にして夏休みを楽しんだ一枚。


樋口真由美さんのお母さんと私は半世紀前に知り合っていたことも最近わかった。

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山場の木曜日をおえた

木曜日の下関は週の山場。早朝から忙しい。

水曜日は家内が泊まってくれ夕食をつくってくれる。昨夜は私のリクエスト「激辛麻婆豆腐」大満足でビールとワイン。食べはじめは6時前、7時には寝る支度。3時まで8時間も寝ることができた。


5時までに配達準備と犬の世話に朝食(ご飯・焼き魚・味噌汁に野菜と目玉焼き)250㎞の配達を無事故でとかしわ手。

3時前に農園ゴールインした。


毎年11月(誕生月)と1月2日は歩いている。写真は2020年1月2日の一枚。


6時前に農園を出てホウベン山ルートで山口市のJR大歳駅まで歩いて「厚東駅」

昨年を元気に働いた数々のことを思いながら「今年もがんばるぞ」と年頭に気合いを入れる2日の行事。


今年の秋は秋吉台を全部歩く。家族旅行村スタートで山々を歩いて長者が森。そこからアスファルト道路を歩いて旅行村と思っているがかなりの距離になる。


1月2日。たまには酒飲んでゴロゴロするのもよいかもしれない。

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ゆきちゃん物語

少し暑くて寝苦しい夜でも8時ごろにはクーラーをとめる。むし暑さは日中の疲れとアルコールで気にせず眠りにおちる。


今朝も3時前に目がさめたときシャツは少し汗ばんでいた。農園スタート前に温水シャワーを毎朝使っている。


しっかり寝るコツはしっかり働くこと。


写真は「ゆきちゃん」をむかえに黒井に行ったときのもの。2019年4月28日。


育ててもらったお宅の爺ちゃんがイノシシ猟に行ったとき山に捨てられた3匹を保護した。けれども弱っており、自宅には数頭の猟犬がおるので連れて戻ったが処置に困った。


向かって右のお嬢さん は豊浦高校生。犬の母乳(私はそれを初めて知った)を買いに行き哺乳瓶で飲ませ3匹の命を救った。翌日の学校は休んだらしい。


育ってはきたがこのお宅で3匹の世話をすることはできない。

お嬢さんのピアノレッスンに通っている先生が「飼い主さん募集」をFacebook投稿した。それを、私が長年お付き合いの「長門フルート教室」の長門さんがキャッチして私に転送した。


正直、どう理由をつけてお断りしょうかと後ろ向きだった。その後、3匹が成長して飼うには限界がきていることがLINEで届いた。


28日は家内が太秦教会にご用奉仕で行った。それをねらって黒井まで引き受けに行った。行くまでは2匹を連れて戻る予定だったが1匹でよかった。

太秦教会の長女に写真を送った。それが家内に「また犬を連れて戻った」という強行突破。


保護してくれた爺ちゃんが出てこられた「あんた、どこかでワシと会ったことはないかね」と私の顔をマジマジと見られた。私の記憶の引出しには見あたらない。

私は以前「ぎじろくセンター」という議会会議録を調製する会社を経営していましたと言うと「やっぱり!」爺ちゃんは旧豊浦町役場議会事務局長だった。つまり私は何度も営業に通って局長にお会いしていた。


そのご縁の糸で「ゆきちゃん」は農園犬。

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白黒写真で迷い子になった日曜日

火曜日の山口市を終えて農園に戻った。

エレベーターは使わない配達。火曜日の最高峰は6階。登頂前にタヌキが出て「きようはエレベーター使え!」と囁いた。私の性格は決めたことを一回崩したら、その決めたことは崩壊する。タヌキに「山に帰れ」と言った。


大正洞パーキングにフォトギャラリー「写創蔵(しゃくら)」がある。フォトギャラリーには縁も関心もなかったが、Facebookで友だちになった(20数年前からご縁があった)撮るためには時間も旅費も惜しまない?松尾さんが作品を出されたことで写創蔵を知った。


何度も作品鑑賞(無料)に行った。作品展は菊川画廊で抽象画がかかり「菊川さん、私には作品の良さがまったくわからん」と言いながら長年通っている。


21日の午後、重枝さん徳重さんと3人で写真展の最終日に行った。


白黒写真が数多くずらりと掛かっていた。入り口の作品から歩みをすすめて最後の作品まで観たが「この展覧会がわからん」に私はなった。

さいわい写真家がおられてので正直に「わかりません」と失礼とは思いながら、わかった顔で帰りたくなかった。


作品は、岸壁に張りつくフナムシ・どこかの郵便ポスト・恐竜のオモチャ・ボールがふたつ・街並みを見下ろす公園の望遠鏡・なにか暗闇に動物の足跡など。


この白黒の世界で伝えたいことは「迷い子」と説明してくれた。つまり作品展をわかろうとした私が「迷い子」になった。思うつぼにはまったことになる。


もう一度「迷い子」になろうと作品を観ていたらギャラリーの主人が白黒写真について、なぜ白黒なのかをまったく素人の私にわかるように導いてくださった。


カラーで表現できるがあえて白黒作品。それが少しわかった。土門拳「筑豊の子」写真集の迫力はモノクロだから極めた作品だったと得心できた。


菊川さんが白黒の水墨画からだからわかることを教えてもらったことも思い出した。


「次の展覧会は悩まず鑑賞してください」と頂戴した案内を載せます。

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今村明監督を思い出した高校野球熱戦

夏の甲子園。感動の幕をおろした。


4年前に亡くなられた今村明さん。

20年ほど前「関東からUターンしました。自宅は船木です。知り合いから農園を紹介してもらいました。夫婦で少ない数ですが配達してください」その電話から今村さん夫妻との交流が始まった。


水曜日の朝8時ごろ配達に行くと元気いっぱいの奥さまが裏口に出てこられる。毎週の会話が重なるうちに、奥さまは20歳ごろ競技カルタで4年クィーンの座におられた今村美智子さん。コミック「ちはやふる」に実名で登場の有名人とわかった。


ご主人は無口、無愛想な大男。あるとき思いきって挨拶をした。笑顔はなく会釈はしてくれた。


挨拶を続け、ある朝「Uターンでご自宅に戻られる前はどんなお仕事をされていましたか」と聞いた「専修大学をご存知かね」私は「知りません」と正直に答えた。その「知りません」に「僕は、その大学で野球監督をしていた」と仏頂面で話された。


生真面目を絵に描いたような人物。あとから知ったその一端は。お見合いのあと初デートで喫茶店に行った。テーブルのコーヒーをグッと飲みほして「出ましょうか」には驚いたと美智子さん。


水曜日。8時から30分、裏口談義が始まった。そのために椅子が用意された。

東都大学野球で20数年ぶりの優勝の監督。退職され地元に戻ったら各地の高校から監督就任のラブコールがあったが「いま、懸命にやっている監督がチームを育てます」とお断りされた。


監督時代のエピソードは毎週聞かせてもらえた。

合宿所に毎晩通って勉強を教えた(もともと高校教師)

プロに入れるのは少ない、入れなかったら社会人として働く。そのとき恥ずかしくない勉強をやっておこうと高校生テキストで勉強した。

お前らは字が下手すぎると習字の達人を招いて書道教室もやった。その教室で監督も学び晩年は寺の塔婆を書くボランティアをされた。


部員卒業前の就職活動に奔走して夜中に合宿所に戻ったら部員たちがマージャンに興じていた。全員外に並ばせて骨折しない程度で「けつバット」あれこれ言うより叩いたほうがよくわかる。


翌朝、日の出前の自宅の庭に部員全員が並んで立っていた。みんな頭をまるめていた。


大学野球監督。当時はプロから選手引き抜きの甘い話はたくさんあったが全部断った。


ある朝、今村談義の前を中学生が遅刻で全力疾走した。その走りぶりが監督の目にとまった「おい!とまれ」と大声でとめた。

「君は運動部だね、何をやっているかね」と「野球でピッチャーです」と返答すると監督は中学生の足を掴んで靴の底を見た「君の走り方は」と走り方についてアドバイスをしたあと「早く行け、走れ!」と尻を叩いた。


亡くなられる年の2月。松村御大主催の「ふく宴会(恒例)」に夫妻で出席され最後は自慢の相撲甚句を朗々と披露された。国体相撲で県の候補になった昔がある。

その宴会翌日は、高知県で専修大学野球部がキャンプをする。それに招かれていた。「ふく宴会」で飲みきれなかった東洋美人の一升瓶を「高知の土産に」とみなさんが託した。

監督の運転で奥さまと四国を楽しまれた。


4月、私が企画した「萩浜坂散策」に行きたいが体調がすぐれないと連絡があったので「農園まで来てください。そのあとはまかせてください」で浜坂をご一緒した。歩きぶりがよくなかった。解散して監督を車に乗せて農園に戻った。途中レストランに寄ったが箸がすすまなかった。


それから2週間。奥さまの運転で夫妻が農園に立ち寄られた「検診の結果ガンでした。抗がん剤治療ですが、明さんは禿げているので大丈夫です」と大笑いした。


そのふた月あと、訃報で夕方お通夜に配達の途中で参列した。美智子さんが「なにか思い出を」とリクエストされ何かを話した。


翌日のご葬儀は、監督をおしむような落雷と豪雨だった。棺にユニホームの監督。プロ野球選手や球団からの献花がずらりとならび今村監督人生を飾った。


高校野球をみるたびに今村監督を思い出す。

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午前と午後もギャラリーを訪れてよい日曜日だった

草刈りで早く寝ていた。

部屋が真昼のようになるほどの稲光りとバシバシと近い距離で地面を揺らすぐらいの落雷で目が覚めたのは深夜1時前だった。豪雨も激しかった。


枕元にハッピーはおらず、電気を点けたら部屋の隅でヨダレをこぼして震えていた。ゆきちゃんは小刻みに震えていた。


停電対策をやっておく。


バスタブに半分水を貯めた。井戸水が停電で止まってもトイレなどに使える。ガソリンエンジン発電機に燃料があるか確認。動きまわり眠気は失せた。


録りためたテレビ番組をこのさい見ることにした。

停電がなかったので朝まで4作品を見た。


「クラッシクTV 安藤美姫とボレロ」

単調な旋律のなかにとけこんだ音楽の魔術が飽きさせないことが少し理解できた。


「久米島の戦争 なぜ住民は殺されたか」

8月18日(終戦の3日あと)日本軍兵士たちに多くの住民が殺された。昨年刊行された「久米島史誌」の住民証言をもとに構成され悲劇がわかった。


「戦渦のなかの僧侶たち 浄土真宗本願寺派と戦争」


門徒を激励して戦地に見送った住職。大切な梵鐘を供出し戦争に加担した住職。

その本願寺派が門徒に対して「あれは間違っていた」と。これからは絶対に戦争に加担しないと宣言した記録。


「歴史探偵」元寇・モンゴル帝国の秘密

鎌倉時代の蒙古襲来は「神風」が撃退したというあやふやな説を直した。

騎馬民族の蒙古軍は約1500頭の馬を船に乗せた。その船の構造は沈没船から揺れやすい船体とわかっている。その船のなかで馬は耐えられなかった。博多湾に上陸した蒙古の兵隊に馬はなかった。

誌上最大の作戦ノルマンディーは4方向から上陸をはじめドイツ軍の守備を混乱させた。蒙古は博多湾の一ヶ所に全勢力を投入した。


5時前にすべて見終わった。

ハッピーが部屋のなかを歩きまわったので床に掃除機をあてることから始まった。


バスタブの水でトイレ掃除。焼却ゴミに火をつけた。犬の朝ごはんと散歩を済ませて私の朝食。


菊川画廊と写創蔵に作品集鑑賞。重枝さんと徳重さんが一緒。


菊川さんから「今回、特にいい作品です。作家の紹介番組ビデオも用意しています」とラブコールをいただいていた。


大正洞パーキングのフォトギャラリー「写創蔵」さんはFacebookで「21日が最終ですよ!」と展覧会の鑑賞を呼び掛けておられた。


午前も午後、私にとってとてもよい勉強になった。両方ともギャラリーにはいって「わかったような顔」で出たら時間の無駄だった。


私は「作品がわかりません」と失礼かもわからないが口にした。


絵画と写真の両方を味わう力を少しもらった。嬉しかった。

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逢坂かのをさんとのご縁

きのう日記で紹介した「逢坂かのを」さんが説明不足と気がついた。

きょうの「掲示板」にポエムの作品と本人顔写真二枚を載せました。掲示板は1日で削除します。ポエム作品と近影をご覧になりたい方は「掲示板」にお立ち寄りください。


お住まいは長府逢坂。お父さんの名前が「かのを」からペンネームは逢坂かのを。

「藤中隊長」と呼ぶ人も多い。長府でイベントが催されるときリーダー的な存在の一人であるから「隊長」の由来と私は理解している。


私と同じ1951年生まれ。今は独身。


写真は岡本拓也さん「ガッツ体操教室」に掛かっている藤中さんの作品。


5年ほど前に作品を見たとき驚いた。中学1年のとき万引きした駄菓子屋にそっくりだった。

店番は腰がまがった婆ちゃん。学校の帰りに婆ちゃんに店の前にある計り売りの「よこづな」を頼んで、婆ちゃんが計っているとき奥でチョコレートなどをポケットにねじこんだ。


ずっとその万引きをお詫びしたいと思っていた。高校生のとき謝りに決心して行ったがお店はやめていた。


ガッツ体操教室の岡本拓也さんに、描いた人を教えてもらった。長府「あけぼの珈琲」でお会いした。それから毎週のお付き合いになった。

隊長が農園たまごを水曜日。地域の人に紹介してまとめてもらっている。


藤中さんが旗揚げする催しには参加したい。藤中さんも私が応援する催しには来てくれる。


カモンFMで最近活躍の呉明美さんのカヤグム演奏会がグリーンモールの会場で催された。開演直前に隊長が来てくれた「あんたが応援するから」と。


駄菓子屋の一枚がご縁をむすんでくれた。


土曜日の配達を終えてお昼に農園に戻った。


家内が自宅から来て昼食はカレーライス。それに缶ビールを一本。10分ぐらい寝た。


高校野球は見たかったが草刈り。2時間で体力の限界を感じてやめた。

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車の故障ありがたし

ブログに「あだちすすむ」と「逢坂かのを」の二つを載せている。

「逢坂かのを」は藤中さんペンネーム「かのを」は父親の名前。私が特に気に入った短編「阿弥陀寺町の幽霊」赤間神宮はその昔は阿弥陀寺という寺だった。経文を体に書いた耳なし芳一の阿弥陀寺。そこが舞台になっている。


「あだちすすむ」は古希を迎えた昨年、子供の国たちに遺そうと書いた「人生の車窓」短期集中決戦型の私が、一年もかけてコツコツ書いた。


そのなかに絵描き石原忠幸先生との思い出を書いた。

先生が「足立さんが一番好きな風景を案内してくれないか」と言われ、それならばとお連れした場所は大分県杵築市の「酢屋の坂道」写真右上は大原野邸(武家屋敷)一大事のときは馬で坂道を駆け下ることができる坂道。坂道向かって右の下には綾部というお味噌屋さんがある。江戸時代はお酢をつくっていた。それで「酢屋の坂道」という。


私がはじめて坂道にであった30数年前、お味噌を買いに行った。勘定場におばあさんが五つ玉のソロバンを置いて笑顔で「米と麦の量り売りですよ」と。あわせて印象に残ったのは大黒柱。

数年後NHKテレビ「大黒柱のある風景」で綾部が紹介された。


石原忠幸先生「酢屋の坂道」は農園にある。ぜひ観てください。その作品が完成した翌年、ほぼ同じ構図でJALがカレンダーにした風景。


きょう1日をひと言にしたら「ダイハード」


きのうまでお盆休みだった清末のレストラン「卯」に1日遅れのお届け8時。

9時に血圧検診。来月投与のフィラリアとマダニ駆除剤を買う。マイナンバーカード交付でお昼前に役所。そこまではスケジュールどおりだった。


私の愛車は今月タイヤ交換。2ヶ月前にバッテリー交換。愛車は長男が新南陽方面に使うので、私は家内の軽四(日産ディズ)で走った。


マイナンバーカードで二万円付与される手続きも終えてルンルンで農園に戻る途中、阿知須の大型商業施設のトイレに立ち寄った。用を済ませてエンジンを始動してもセルが回らない。


家内が持たせてくれた弁当とお茶はある。


山口トヨタ山口支店長の岡本さんに対処を聞いた。JAF(私は会員)に連絡して、その結果を折り返してください。いつでもそこに向かうことはできます。


JAFは「いまこみ合っており2時間待ってください」と言うのでキャンセルした。岡本店長は即座に店を出て向かってくれた。


ただし、トヨタ店にバッテリーの在庫はない。エンジンをかけて店まで行っても代車になる。

30分で来てくれエンジンは動いた。すぐ近くにカー用品店があるのでそこに行きましょうと先導してくれた。


店内でバッテリー。ピンキリのなかから「これ!」と岡本店長が選らんでくれた商品。取り付けまでは30分。

レスキューしてもらったお代は「要りません」と笑顔で去った。


金曜日の予定をすべて終わってバッテリー。JAFをキャンセルしてトヨタ。すぐ近くにオートバックス店。

もし家内が配達先や買い物でのバッテリーあがりだったら右往左往した。


きょうの金曜日、半日の予定を済ませてのダウン。ありがたい出来事だった。

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ぎじろくセンターの思い出

写真の説明


Facebookに株式会社ぎじろくセンターが投稿した一枚。


市町村議会会議録は速記者が隣席して符号を使い発言を克明に記録。その象形文字のような符号を日本語に調製する。それを「反訳」という。


速記者は早稲田式が多かったが田鎖式。山口県には毛利式の速記方法があった。毛利式は毛利藩校などで勉学のため藩独自、必要にせまられてつくったと聞いた。


28歳で「株式会社ぎじろくセンター」起業。社員は無報酬の家内だけ。文字起こしをやれば儲かるぐらいで若さで走りだした。


山口県内の市町村を契約していたとき、30歳半ばだった。下松市議会に通いつめて契約できた。契約は事務局職員や局長にその権限はあった。けれどもこの契約で会社の命運を決めたと言っても過言ではない物語がはじまった。


議会事務局には会議録の調製だけに雇用された専門職の中野という方がいた。早稲田式速記方を学ばれペンひとつで生きてこられた職員さん。


録音テープを文字起こしして校正を届けたら眉間にシワがよった「これは何かね!」と。

日本語についての講義が別室で延々とはじまった。読書は好きでも「万葉集を読んだか」と言われて震えた。会議録はそれほど難しいのか!


毎週のように中野さんから呼びつけられ別室がはじまった。中野さんの帳面には下松市の溜め池や踏切名など固有名詞が3000以上も検索可能なインデックスで整理されていた。


他の議会事務局からの校正が終わった朱筆は少ないが、下松市だけは真っ赤になっていた。その修正に手間取った。

ある夏の日曜日、下松市の朱筆を修正するためワープロに向かっていた。暑いのでズボンを脱いでステテコ。缶ビールを飲みながらキーボードを叩いていた。そこに下松市の中野さんがいきなり来られた。


下松市の修正をしている私を叱りつけた。中野さんは、私の会社で足りない(わかっていない)ことを職場では時間が足りないので日曜日に会社に来られた。会社が閉まっていたら私の自宅に来られる予定だった。


その時手にしておられた辞書。国会速記者(衆参130名)が反訳の拠り所にしている「標準用字例」だった。当時、納品していた会議録は、テープ起こしをするオペレーターが持っている岩波などさまざまな国語辞書を使っていたので表記も不統一だった。


例えば、発言は「きょう」なら反訳は「きょう」。発言が「こんにち」なら反訳は「今日」になる。発言が「きのう」なら反訳は「きのう」。「さくじつ」なら「昨日」となる。

つまり発言を間違いなく文字表記をするために国会速記者が毎年かわる時事用語や専門用語などを統一して表記する拠り所がそれだった。


国語や文法を学んだことはない。万葉集も知らないが下松市議会会議録を契約できて会議録の背骨をしっかり理解出来た。


口やかましく言ってもらえる人は恩人だとわかった。


今朝の下関。木曜日にいつもの場所で挨拶をかわすポスティングのご年配に声をかけた「今朝は何軒かね」木曜日と金曜日で600軒。マンション地域は宅配ボックスで楽。けれども木曜日は下関の家々は勾配があり大変。もう30年ちかくやっていると笑顔になった。


唐戸魚市場はきのうの荒天で魚はほとんどなかった。

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激しい豪雨に綾羅木であった

古希を迎えた昨年。3つの目標を達成した。


一つは「歩く」 道の駅「みとう」スタート。秋吉台を横断して大正洞におりて、道の駅「みとう」までの完歩。


二つは「人生の車窓」 仕事で生きた。父親として夫としてより稼ぐことに生きた。ほとんど自宅に居なかった。居るときは酒を飲んで転がっている父親だった。

その仕事をやりながら歩いた足跡を「車窓」として子供に伝えておきたい(読むか読まないかは気にせず)

約一年、毎週金曜日にタブレット画面に向かって車窓を書いた。たくさんの誤字訂正は淳貴君のお母さんに点検してもらって完全した。


三つは淳貴君ポストカード 作品10点を淳貴君ご家族に選んでいただき10枚一組で500セット。ワンセット1000円で販売。たくさんの方々が応援するしてくださり2週間かからず完売できた。その全額をバーバラずプロモートクラブに寄付をした。


70歳でも10数時間歩ける健康で迎えた喜び。人生の車窓を家族に伝えられた喜び。淳貴君ご家族にポストカードを快諾いただき50万円の貢献ができた。三つの喜びで古希を越えた。


写真は、ポストカードをずっと残すため。自閉症・パステル画で世界中のひとが検索してくれるなら国立国会図書館に収蔵してもらいたいと深夜にひらめき担当部署にメールを出したが断られた。理由は「絵はがき」だった。担当者に電話をした「作品」ですよ。その作品を添付で届けますから再考ください。スペシャルオリンピックスのアスリートの作品です。


そのあと届いた受領の一枚。それは淳貴君にプレゼントした。

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照ったり降ったりの山口市を終わった

昨夜のNHKテレビ録画「ビルマ」を3時に起きて観た。

敗戦ちかいビルマ(ミャンマー)で何があったか。当時のビルマに従軍した兵士たちの日記をもとに番組が構成された。イギリス植民地からビルマ解放の指揮をとったアウンサン(アウンサンスーチー父親)は、大東亜共栄圏旗印の日本軍の指揮下に入り戦ったが、日本軍の横暴で袂を分かって抗日運動に向かった。


太平洋戦争はアメリカから鉄屑や石油などをとめられ、アジアにその資源を求めるための大義としてアジア各国を植民地から独立させる大東亜共栄圏を唱えた。


その一連の歴史が日記や戦場手記から読み取れた。


写真は昭和17年2月3日、184名もの海底炭鉱水没事故を起こした宇部市西岐波長生炭鉱の構造物(ピーヤと炭鉱用語でいう排気と吸気の構造物)


その戦争責任を我が国としていまだに総括していない。


お盆の山口市配達。日ごろはお会いできないお宅に在宅が多く会話を交わしながら終わった。

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宇部空襲を生きた母から命をいただいた

6年前、96歳でお国替えした母。私を戸籍で認知した父親のことは一切語らず。出雲の母がどうして宇部で生活したのか言わなかった。


出雲弁で「おじぇえ」は「こわい」という方言。子供のとき花火を見て思わずでた母の方言。火災現場に急行する消防車のサイレンにも方言が出たことがある。


その「おじぇえ」は話してくれた。

花火もサイレンも宇部空襲を思い出すと。その空襲のとき母は27歳。港町の保健所そばに住んでおり焼け出されたらしい。


誰を頼ったのか。どこで食べさせてもらったのか。私が生まれる6年前、焼夷弾のなかを生き延びてくれた。


配達を終えて農園に戻る午後1時過ぎ。九州方面に待つ黒な雨雲がわいてきた。アプリの雨雲レーダーで確認したら30分あとに農園地域も短時間ながら激しい雨が予報されていた。


激しい雨雲を背に受けて農園に走るとき、後方は吐しゃ雨でも前方は晴れている。

年配らしきバイクの人は、空を眺めてバス停に止めて雨をやり過ごす。

若いライダーの一団は真っ黒な雨雲に向かって走って行った。せめてスマホで雨雲を確認すればよいのにと思った。


海釣りやキャンプが趣味だった。専門的な気象の知識はないが、雲や風をみて少しは予測ができる。


約30年ほど前の写真を載せます。

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熟睡9時間はしあわせ

今朝5時まで9時間熟睡した。途中で一度、深夜にキツネが騒ぐので窓を開けて大声で「やかましい!」とキツネに負けない音量で叫んだ。叫びおえてすぐ寝た。


Facebookで瑠璃光寺を丹念に撮られて投稿されている「ももじろー(亡くなった愛犬の名前)」さんこと藤井壌二さん(1931年お誕生)Facebookだけのご縁でお会いしたことはない。

8月14日、終戦前日に光市の海軍工場に学徒動員で勤務。B29の爆撃で九死に一生の体験を「よかったら読んでください」とFacebookに投稿された。


8月15日玉音放送で終戦。


その放送があることは連合国はもちろん知っていた。それでも日本の各地に焼夷弾の雨を降らせた。岩国もその雨が降った。


早朝、藤井さんに「拝読しました」のメールをお届けした。


山口市のお届け先のお婆さんが「アメリカは、すかん!」と配達のとき何度か言われた。

学徒として徳山の軍需工場で働いていたとき空襲にあった。山手の徳山動物園方向に走っていたとき焼夷弾の破片で親友が即死。

なんで14日に徳山を焼かんといけんのか!


菊川画廊からLINE。


開催中の展覧会ぜひご覧ください。ビデオも用意しています。


今月は中盤から予定がつまって画廊に足を運ぶ日を決めかねていた。

来週の日曜日(21日午後)。菊川さんにあいに画廊に行くことを決めた。ご都合のよい方はご一緒されませんか。ご連絡をお待ちしています。


7時から9時まで草刈り。朝とはいえ作業ズボンまで汗になった。午後から山口市内、岡本さん配達に給油に散髪をすませてさっぱりした。安いハイキング靴をヒマラヤで買った。

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午前中は萩市から美祢市 午後は草刈正雄

農園生活20年数年。その前、28歳で起業(株式会社ぎじろくセンター)して退職した48歳までの20年は猛烈に働いた。市町村議会会議録の録音を文字に起こして印刷製本する、他に手本がない仕事を始めたので多忙だったが利益もあがり、退職時は山口県下から九州一円で約220市町村と契約を交わしていた。


日曜日は月曜日から営業に行ける、例えば宮崎市まで走り(当時は高速道路はない。10号線を12時間かけて移動)日曜日の夜は宮崎市内のビジネスホテル。熊本や大分を営業しながら宇部に戻った。戻ったら飲みに出かける。少しでも時間があれば宇部沖に釣りに船を出した。


3人の子供。運動会や参観日、入学式も卒業式も記憶はない。家族で旅行の思い出もない。

農園生活で一度も自宅に戻ったことがない。つまり食卓を家族で囲んだことはない。いま、家内は週に3日は農園に泊まってくれる。


その毎日が充実して楽しい。


今朝はパン一枚トースト。豆乳に野菜炒め。納豆にバナナ少しの朝食を5時に済ませて土曜日の配達スタートをした。


愛犬たちは4時に食事と散歩は終えた。


写真は、今朝7時に萩市橋本川にかかる玉江橋から上流を撮った。


農園にお昼前に戻り、自宅からきた家内が昼食。それに缶詰ビール1本。


午後から2時間草刈でしっかり汗をかいた。


明日の日曜日は草刈りで始まり、そのあとの予定もしっかりある。

楽しみは、日曜日の朝はラーメンに決めている。モヤシを買ってきた。

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3日連続の下関を走りおえた

下関市飲食店街・歓楽街といえば「豊前田(ぶぜんだ)」

証券会社の守衛さんから鶏肉とたまごのご注文があったので裏口から入ろうとしたとき、道路に身をかがめて掃除をされている姿が遠目に見えた。


農園を始めてからずっと毎週木曜日にお届けさせてもらう寿司割烹「浪花」の荒川大将だった。私がお届けする8時15分ごろにはお店の周囲に打ち水をされ歩道はきれい。


7時半ごろ、お店からかなり離れている歩道を玉の汗をかいて掃除をされていた。その姿に感動して「撮ってもよいですか」と声をかけたら苦笑されたその一枚。


私なら、掃除している姿をどうぞ撮ってください!何枚もになる。


以前のこと、お店の近くの公衆電話ボックス前が長年生ゴミの集積所だった。夜の飲食店から運ばれた生ゴミが山になり漁網がかけてあった。

ある時、その漁網からカラスが生ゴミを引き出して歩道に散乱させていた。それに私は手が出せなかった。

私を見送りに出てこられた大将がその散乱を見てすぐに腰をおって素手で生ゴミを漁網のなかに入れられた。


私は1のことをやったら10をやったと言うような性格。それは自覚できている。

荒川大将は10やっても黙っておられる。


NHK「新日本風土記(ふく)」の番組に登場された浪花です。

https://sushi-naniwa.info/


水曜日から3日連続の下関。

泊まった家内がアリナミンを飲めと朝からやかましい。飲んでも小便がアリナミン臭いだけで元気にはならない。


6時に配達のたまごなどをのせて下関に向かった。水曜日と木曜日で炎天下、たくさん個人や事業所など配達した走行距離は500㎞以上。

下関に向かう国道2号線を走りながら体力が農園に戻るまで持つだろうかと本当に思うぐらい疲れていた。


きのう松尾さんが40株のフジバカマの挿し木を農園に届けてくださった。松村御大が現在奉職しておられる東亜大学に植樹して留学生たち学生にアサギマダラを見せてやりたいとのウェルカムでご自宅に届けた。

8時過ぎ、御大は在宅と思ったら初盆をむかえる市内の関係者家々にお参りに行ったと奥さま。御大は神仏を心から敬っておられる。


私の恩人、台道の上田さんご自宅に初めて御大夫妻と私の三人で酒を飲みに行った20年前。玄関で靴を脱いで「上田(萩の中学からチングウ)仏壇はどこか」とまずは仏様に般若心経。


私はよき先輩に恵まれしあわせ。


下関の用事を済ませてコンビニコーヒーを梯子をしなから農園に戻った。


日記で書いた4回目ワクチン接種の水曜日。私の長距離運転を心配して月曜日の抜け道を教えてくださった方。ありがとうございます。そのように調いました。


🔶「あだち美術館」更新おわりました。

どうぞお入りください。


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それが神様のはからい

きのう(水曜日)、下関市内の配達で24日(水曜日)のコロナ予防ワクチン接種。10時からお昼までを済ませるコースを想定しながら走った。


5時に農園スタートして9時ごろ綾羅木が終わる。そこから宇部に戻り接種を受けて午後1時に綾羅木に戻り配達を継続すればよい。

けれどもこの暑さと、一旦宇部まで戻って綾羅木まで走る辛さは高齢者にはため息が出る。しかも、副反応の翌日は週で一番多忙な木曜日が控えている。


それでもやると決めた。


夕方、そのワクチン接種について書いた火曜日の日記を読まれた方から電話を頂戴した。29日の月曜日に接種ができる。その連絡方法の詳しいことを教えてくださった。


前回、3回目の接種は月曜日を病院から指定された。日曜日に月曜日午後の配達を済ませて病院の指示に従って接種をおえた。翌日は山口市内の配達で副反応をこらえて終わった。


29日(月曜日)の接種をアドバイスしてもらったとき「ありがたい!」と心から思えた。神様は姿をあらわしたり、言葉が聞こえたりはないと思っている。けれども日記を読んでわざわざ電話で私の悩みをスッキリ解消してくださった神様。

もちろん自分にとって都合のよいことばかりがご神意ではない。


私は神様や母の御霊としての働きを日常の事柄から感じている。


水曜日の下関を走りおえた。


松尾さんが「フジバカマ」40鉢の挿し木を農園に届けてくださった。明日は3日連続の下関。松村御大ご自宅にも用事がある。

「フジバカマ」をLINEでお知らせしたら「東亜大学に植えるから欲しい」と即座に返信があった。

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きょう嬉しかった場面のひとつ

正月とお盆、それと大型連休は配達が変則的になる。変則的とは同じ配達範囲のコースをお客さまの都合にあわせて走ることになる。


普通は水曜日と木曜日は下関と美祢市。その配達先をバラバラにして水曜日から金曜日の3日で走る。


同じ道を走る3日を考えると仕事とはいえこの暑さで気持ちが萎えるから「きょう一日」の元気と安全運転を夜明前、神棚のかしわ手に祈りをこめた。


写真は下関市内のあるマンションお届け先の一枚。

6月だったか「紹介してもらいました。配達してもらえますか」と電話を受けた。

マンションの住所を教えてもらい、月末金曜日の清末レストラン「卯」の集金でマンションと車を一時止めるスペースを確認した。


その後、配達と集金のルールを決めるためにお会いした。決めた時間前に到着したらエントランスまでおりて私を待っておられた。丁寧なお人柄が印象に残っている。

宅配ボックスで受け渡しのルールが決まった。先月はボックスでご入金いただきルールどおりになった。


きのうLINEで「空のパックを置いておきます」と連絡があり受け取った。おそらくご本人は出勤されている8時。パックに飲み物が添えてあった。


美祢市プチラボの加奈ちゃんから「おいちゃん!少ないけれど配達して」のLINEが昨夜あった。水曜日の配達最後はプチラボになった。


3時前に農園に戻り犬の世話からはじまって水曜日の後始末。シャワーで着替えてロング缶一本飲んだら夢の中。


夢からめざめてブログの掲示板更新と日記の更新をおえた。

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コロナワクチン4回目の接種をやることに決めた

コロナワクチンの4回目接種は24日(水曜日)の午前10時からお昼までの時間が指定されている。

いろいろ考えたあげく「もう接種はやめよう」とここ数日で決めた。


その理由は。


水曜日指定された時間に病院に行くためには、早朝から配達をしている下関を9時ごろに一旦切り上げて宇部まで戻り、接種を済ませて下関の配達コースに戻るというハードな運転になる。


接種の翌日、私は過去の3回とも発熱と倦怠感に接種した腕の痛みがある。接種の水曜日の翌日は週で一番忙しい木曜日の下関がひかえている。休めない。


接種した人が感染している。


火曜日はニュースタイル糸賀会長が私とお茶話しで待っていてくださる。会長は週3日の透析やいろいろ持病がある。

今朝もコロナに細心の注意をはらって生活されている様子を話された「ワシは感染したらアウトじゃからの」と。


やっぱりワクチン接種は受けることにした。


写真は淳貴君のお母さんから届いた封書。その切手は、淳貴君作品展が昨年「植木紙店ギャラリー」で初めて催されたとき、ポストカードとスマイルバッグのデザインをしたデザイナーの河上さんが、ヤギが大好きな淳貴君に「ヤギさんスタンプ」をつくってプレゼントされた。

さらに今年の3月、淳貴君の高校卒業祝いにそれで切手シートを贈られた。その切手で届いた。

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元気いっぱい月曜日がはじまった

きのう、草刈りと車の修理で山口市内、タイヤとオイル交換で防府市。台道の上田さんにも会いに行って充実の日曜日だった。


家内が好物の天ぷら蕎麦をつくってくれた。それはおいしく食べたが疲れがレッドゾーンに達していたのかビールだけで眠たくなり焼酎もウィスキーも飲まずに眠りにおちた。


爽快に朝をむかえ、月曜日の配達スタートの5時半まで作業に汗をかいてシャワーをあびてスタートした。


小郡バイパス6時、朝日に向かって走った。

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午前中にかいた汗はすごかった(大量)

日曜日の朝は「もやしラーメン」

乾麺の「味噌ラーメン」もやしとウィンナー2つを火にかけて、乾麺は鍋で煮る。スープは電気湯沸し器で丼ではかって沸かす。生卵は割っておく。他に生野菜と納豆。きょうは草刈なのでパン一枚をトースト。それにヨーグルトをつけた。バナナも少し食べた。


食べ終わって食器と台所にガスレンジを掃除。部屋の掃除機を済ませてトイレと風呂の掃除。


愛犬はそのあとから朝食と散歩。そこまでで6時になった。焼却ゴミに火をつけた。


ブログのホーム画面更新は3時に済ませた。


隣接の広い耕作放棄地の草刈4時間。作業ズボンまで汗になった。猛烈に暑かったがきれいに刈り取った。

シャワーで着替えて茫然とクーラーにあたっているところに家内が自宅から来た。私の予定を知っているので弁当を買って来た。


配達の愛車。フロントガラスの飛び石の傷修理をお願いした山口トヨタの山口店に11時。岡本店長が待っていた。ガラスの全部をかえたら10万円はかかるがリペア修理で16000円で済んだ。


きのう拝借の代車は濃いボディーカラーだった。今朝「ゆきちゃん」がその車体に映った我が姿に激しく威嚇したあと噛みつこうと車体の下にもぐりこんだ。


傷をなおした愛車を防府トヨタに走らせた。予定どおり1時からタイヤ4本交換とオイル交換。


2時に防府市台道の上田さんにご挨拶。

昔はとことん酒を飲んだ(上田さんは一升飲んでも変わらなかった)がいまはコーヒーで会話がはずむ。会話と言っても高齢者は健康になる。

東洋大学ラグビーで鍛えた重戦車のような巨体はもう無用の長物。

長いお付き合いで腹をわった会話ができる。


4時、農園に戻り高圧洗浄できれいになった草刈機などを収納。日曜日が終わった。


写真は、昨年の8月7日にうまれた子牛。

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いろいろありました土曜日☺️

この日記を書きはじめた6日(土曜日)の午後4時。先ほどシャワーを済ませてロング缶1本を済ませて2本目を飲みながらの日記。


今朝の起床は3時前、萩市にむかう準備と愛犬と私の朝食などいつもの土曜日。ハプニングは、きのう周南市方面を配達した正志(長男)は私の愛車で走った。小石がフロントガラスにあたり傷を受けている。


明日の日曜日、愛車は防府トヨタで午後1時からタイヤ4本とオイル交換の予約をしている。

ガラスの傷はこれまで2回あった。今回で3回目になる。小さなフロントガラスのキズでも、放置したら全面に拡がる。ガラスの交換費用は高額になる。一度は保険で修理したが保険料が高くなった。2回目は保険を使わず現金支払い。


今回も高額な修理費用になる。明日の防府トヨタ担当者にタイヤなど交換にあわせてフロントガラスの交換ができないかを何度も電話で問い合わせた。呼び出すが出ない。

車のことなら下関の江口さんを思い出して電話した「安くフロントガラスを修理できないかね」と聞いたら「リペアという修理がある」そのこと詳細を聞いて防府に電話しても出ない。


それなら山口支店長の岡本直也(岡本拓也さん長男)に日曜日のタイヤ交換とフロントガラスの傷のことを電話した「1時に山口支店に来てください」で電話は終わった。

1時に行ったら代車が用意してあり明日の午前中に「リペア」でやります。2万円以内でできます。


山口トヨタから戻り2時間草刈機を担いだ。


明日は早朝から草刈機「ハンマーナイフ」で広い面積に挑む。10時ごろそれに決着をつけて代車で山口トヨタ。1時に防府トヨタでタイヤとオイル交換。


日記が長くなった。


写真は、先週の「あだち美術館」で紹介した美祢市の岩崎祥子さんポストカード。

同じ美祢市で絵手紙の萬代信子さんがご縁をつないでくださりお会いできた。


それを書くのがきょうの日記の本命。


たまごをご注文くださり、LINEで教えてもらったご自宅をさがして行った。そのたまごのケースに見覚えがあると詳子さんが言われた。聞いてみたらおじいさんが「しんあい農園で買った」と持ってきてくれたケースだった。


美祢市から買いに来られるおじいさんは何年か前よく会話を交わした。

グランドゴルフの出で立ちの日もあった。軽四トラックに荷台はグリーンのシートがピシッと張ってあり几帳面な人柄が見えた。必ず自慢の俳句の走り書きを何枚もくださった。笑顔がとてもよかった。お名前は「みよし」と名乗られた。


その軽四トラックのおじいさんは詳子さんお母さんのお父さん「みよし」さんだった。90歳をこえてお元気。運転はやめられた。

夕方、おじいさんにたまごを持って行くとLINEが届いた。

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あだち美術館 更新しました

長年お届けしているお宅の表札。

ご主人在宅だったので読み方と由来を聞いた。


昭和19年3月10日(陸軍記念日)が誕生日。三十士と書いて「みとし」と読ませる。


国防婦人部と称した全国組織が陸軍の後押しで活躍した。男子を一人は出征させることが母親としての誉れ。男子に恵まれない母親は肩身が狭い。鍋釜にカヤの金具まで供出させられたとき地域の主婦同士のチェク「まだあるじゃろう」出征兵士を歓呼で見送り、戦死すれば地域の婦人部がこぞって仏壇に手をあわせて立派な英霊になられましたねと。


しかし戦地に我が子を送る母の心は涙だった。繕わなくてはならない世間体と親心。心の戦争だった。


正義の戦いなどない。


表札から昭和19年の世相が読み取れた気持ちになった。


疲れきって木曜日の夕食。唐戸の魚はそれでも旨かった。とくに六連島のアジ丼は絶品。跳ねていた小魚(小鯛・イトヨリ)の揚げ物。牧君から岸和田のナスの漬け物が届いて食卓は賑わった。


3時過ぎに目があいた。アルコールはすっかり抜けていた。予定では早朝から草刈、予報では朝から雨。予報に期待して雨具レーダーを確認したら濃い雨雲が接近中だった。

4時に焼却ゴミに点火して愛犬の散歩まではできた。ゴミが焼き終わったころから落雷と豪雨が始まった。内心「草刈はできないから」と喜んだ。アルコールは抜けたが疲れは残りアリナミンを1粒飲んだ。効能に期待はないが家内が「飲め」と。


いろいろ済ませて10時に「温泉の森」一番乗り。サウナ上段真ん中で15分床にたくさん汗をためるほどだった。

ジャグジー湯で足の裏からヘソの奥まで洗浄。寝て入れるお湯で手足がほとびるまでリラックス。


休憩室でWi-Fiを使って「あだち美術館」更新。


お昼過ぎに農園に戻り渇いた喉に冷たいビールをゴクゴク飲んで昼寝ができた。

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木曜日は唐戸魚市場が楽しみ

今朝6時前の国道2号下り線「談合峠」手前。


6時半、赤間神宮駐車場から歩いて唐戸魚市場に晩酌の魚を買いに行った。魚は安くて新鮮なモノが買えたらよい。楽しみは潮風を楽しみながら海峡を行き交う船を眺める時間が「ちむどんどん」する。


市場をぐるり歩いて欲しい魚、鮮度のよい大きなイワシかアジは見当たらなかった。結局、いつもの「立ちんぼ店舗」の母ちゃんたちが、こまい包丁でこまい地魚をしご(下ごしらえ)しているところで会話からはじめた。

活きている小ダイと小さいイトヨリを手際よくさばいている母ちゃんに「何年やりよってか」と聞いたら「50年以上はやりよる」小ダイとイトヨリはひと山500円(ふた山だから1000円)でどうかねと言いながら、私が買うと言わないのにビニール袋二つに入れた。千円払おうとしたら「六連島のびた(鮮度抜群)のアジ4匹も500円!」と袋に入れた。少々押し売りとは思いながら1500払った。


鮮度と安さで文句は言わせない母ちゃん。


小ダイとイトヨリは揚げ物。余ったら冷凍でアジは刺身とアジ丼に家内がつくる。


明日は早朝から草刈り。そのあとは湯田温泉「温泉の森」予定。

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暑いのは当然「暑い」を言わない水曜日

6月、農園内に母を納骨した。朝夕、涼しい時間に少しでもと草取りをしている。私の一番身近な場所に落ち着いて母も安堵している。


先週の水曜日、神田さん愛犬「コロンちゃん」が食べず、動かずだった。翌日、心配で神田さんにLINEで容態を尋ねたら獣医に行った、真っ黒い便が出た(私は血便と思った)。

土曜日、神田さんご主人が長府「蛍遊苑」で写真展を催されているので淳貴君を済ませて立ち寄った。

ご自宅の庭に100種類以上の薔薇を育てておられる。それは、風のない早朝にシャッターを押すためだけに薔薇と生活されている。

写真展の会場で愛犬の様子を聞いたら「もうダメじゃろう」と言われた。


きょうお昼。薔薇園の神田さんお宅に配達。コロンがコロンと逝っておったら慰める言葉も考えていたがコロンやかましく吠えて復活していた。  


スペシャルオリンピックスのシャツ(左)は淳貴君のお母さん。バーバラのシャツ(右)は清水の姉御。肩に輝くスマイルバッグ。モデル映えの一枚!と言うことにして掲載。

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山口市はとても暑かった

きのう夕方から今朝までクーラーを使わない一晩を過ごした。

床にタオルケットを敷いて、8時前には疲れとアルコールで寝た。深夜1時、網戸からとどいていた風がとまりむし暑さで目があいた。

コップ一杯の水を飲みほしてから愛犬と深夜の散歩。扇風機を足もとに置いたらすぐに眠りにおちた。


火曜日、農園スタートは6時過ぎで大丈夫。

食物アレルギーの「ゆきちゃん」はすっかり患部がよくなり安心。「ハッピー」は食欲不振、暑さを乗りこえてほしいので生たまご1個(ハッピーはたまご・ヨーグルトなど👍)

私は、野菜炒め・納豆・トースト一枚・バナナに豆乳。シャーワでサッパリして一日が始まった。


Facebookに投稿した一枚です。

農園は周囲の地域より、山と川が側にあるおかげで少し気温が低い。


あすの水曜日は5時過ぎにスタート。3時ごろから一日が始まる。

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盛夏をむかえました。元気で過ごしましょう!

盛夏の8月をむかえました。

暑さが毎年こたえる私です。それでも毎月6000㎞の配達と草刈りは休むことなく続けます。


きょうは岡本拓也さんの山口市に6時お届け。その後は美祢市から山陽小野田市に宇部市を配達しました。うだるような35℃でしたが農園に戻ると31℃さらに風があるのでとても快適です。


農園をはじめてほぼ独り暮らしの別荘を建築してくれたのは広島の永本建設(お掃除仲間)彼に建設を頼もうと思ったきっかけは「支払いいただいた以上の満足がきっとあります」の言葉に背中を押された。


冬場は冷え込む寒冷地。冬をむかえて気がついたのはすべて二重ガラス。そして建築が終わったあと広島から来た業者が外壁と屋根裏に断熱材を注入した。

火災になったら断熱材はよう燃えますからね。けれども暑さも寒さもしのげます!と言い放って帰った。


月曜日の配達から戻りシャワーで着替えクーラーなしで日記を書いている。


美祢市の山あいで先週も出会ったキジの親子が車内から撮れた。

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