3日ほど前から老犬ハッピーが食べなくなった。鶏肉や鶏レバーなど好物を少し食べてすぐに吐き出してしまう。きのう缶詰など買って与えたが食べない。水を口もとにだすとペロペロ飲む。
今朝5時、起き上がれないハッピーに口づけをして下関に向かった。3時に農園戻った。横になって目を閉じていた。
福島県で処理水放出がはじまり中国の反応が気になっている。言葉の暴力や中国大使館や日本人学校に投石など目にあまる。処理水放出の是非のことではない。
例えば、警察官や学校教師が不祥事を起こしたとき、すべての警察官や教師に対して「おまえたちは信用できない」とは言わない。
投石や言葉の暴力があったにせよ「中国人は」と決めつける気持ちは大人として慎まなければならない。自戒をこめて。
網戸で快適な夜を過ごした。目があいたらいつもの3時前。4時から動けばよいのでテレビ録画をひとつ観ることにした。
「チェーサーが終わる日」大阪朝鮮学校閉校まで取材したNHK番組。
Facebookで下関朝鮮学校を私はフォローしているのは呉明美さんとのながいお付き合いで。数年前、朝鮮学校にクーラーを設置したいのでと200万円の寄付が学校が投稿された。
朝鮮学校は各種学校という位置づけで国に予算要求はできない。雨漏りもたくさんある教室で子どもたちは学んでいる。政治としてやれること、やれないことがあるとしても、子どもたちが暑い教室で学んでいることに配達先の「てじょん」のお母さんに少額のカンパを預けた。
ブラジル掃除に学ぶ会に参加した。サンパウロに数日滞在してアマゾンやリオデジャネイロ(カーニバル)など遊びまわった。
サンパウロ滞在では日系人が大歓迎してくれ驚いた。心のふるさと日本から来てくれたと、私は沖縄の人に招かれプールのある豪邸に招かれて酔いつぶれた。
韓国慶州ナザレ園に保護されている日本人おばあさん訪問ツアーをたくさん企画した。日本が大好き、死んだら魂は海をこえて日本に帰る。
大阪朝鮮学校の番組は民族の誇り、それは母国以上ではないかと思った。学校の先生はチョゴリ、今の韓国の学校でチョゴリで教える先生はないという。学校で修理や催しでお金が必要になったら同胞の家庭をまわり寄付を募る「うちは、家のことでいっぱい」と言いながら寄付をする。
運動会など学校行事には老若男女が集まり盛り上げる。給食はオモニたちが食材を持ちより賑やかにつくる。
水曜日の下関が終わった。
どこかで昼寝をしたいと車がとめられる木陰をさがしながら走った。東行庵にそれがあり10分ぐらい夢のなか。起きたら蓮の花がひとつ目にとまった。
盛夏から猛烈な残暑のなか農園内外の草刈りをやりながら配達ができている。それは、自分の時間をとれていない。
夜は網戸で快眠できる。今朝は3時に目があいた。4時から動き始めるとしたら何をするか。録画している、100分で名著「覇王の家」4回(最終回)を25分を寝て勉強することにした。
「覇王の家」を一人読んでは理解ができない徳川家康像が100分でざっくりわかった。
私の「わかり方」は三河気質。コツコツ地味に続ける・閉鎖的。この二つを司馬遼太郎は作品であらわし、それが現代の日本にも尾をひいているような理解になった。
つまり、徳川時代の鎖国こそが家康を育てた三河の気質(文化)。その排他的ともいえることが今の日本にあるという司馬遼太郎の指摘が作品に盛り込まれているようにうけとめた。
家康は家臣をあつめて進むべき方向を議論させ、その家臣たちが出した結論に頷いた。つまり家臣は、議論を尽くして殿から「そうせい」と言わたからには責任が有る。
長州藩、毛利敬親が家臣たちが進言したことは「そうせい」とたてに首をふり「そうせい候」と揶揄されているそれに家康も似ている。
16年以上も私の相棒をつとめてくれている愛犬「ハッピー(農園16年)」が高齢と猛暑で極度の食欲不振になった。
ドッグフードはまったく食べない。鶏肉を煮る。冷えた牛乳ぐらいは少し食べてくれる。ペットクリニックに行けば血液検査などで診断されて薬の処方になる。
それより寿命として毎日を見まもりたい。
きょう、イラストレーターの岩崎祥子さん、所用で長門市通(かよい)に行かれました。その通の海を届けてくださいました。
土曜日、配達の愛車(軽四ワンボックス)で長崎県往復約600㎞を走り床にふせている仲間(81歳の先輩でも仲間)の手を握りに行った。
前の仕事(市町村議会会議録調製)のとき宮崎市日帰り営業して、翌日は岡山県の金光出版で昼から仕事をしている。そのぐらいハードでも趣味の海釣りで宇部空港沖を楽しんだり、居酒屋めぐりをやった。
土曜日、72歳が軽四ワンボックスで12時間半走った。その疲れが残ったまま日曜日の朝から草刈りをした。
湯田温泉「温泉の森」でサウナやジャグジー湯でリフレッシュできると思っていた。たしかにさっぱりしたが年齢的にかなりの無理をした。
今朝4時。いつもの目覚ましアラームで目はさめたが動きたくない。動けない。月曜日の配達ができるだろうかシャキッとしない朝をむかえた。
5時半、弁当を持って農園スタート。6時すぎに最初のお届けは岡本拓也さん「おはようございます」とその時間、私に声をかけてくれた。2月ごろから通院がはじまり仲間たちが心配している。
ご自宅周囲の雑草など、見た目にもきれいになっており「たくさん汗をかいたでしょう」と言うと「小型のエンジンチェンソーを買って汗をかきました」と。数ヶ月、長いトンネルを抜けられ笑顔だった。安心した。
私はなんとか月曜日をおえた。今夜もしっかり寝て体力回復して火曜日をむかえたい。
疲れ果てウイスキーハイボール濃いめを2本、ビールもワインも飲んで横になった。目があいたら4時、網戸から入る風が涼しすぎて窓をしめて深い眠りにおちた。
5時目が覚めたとき、この涼しい時間を寝ている場合ではないと思いシャキッと起きた。
家内に7時に朝ごはんを頼む。6時から草刈正雄になった。涼しいがしっかり汗をかいた。雑炊定食の朝食をすませて山口市。
湯田温泉「温泉の森」に4時間滞在してジャグジー湯やサウナを楽しみ、休憩室のリクライニングシートで昼寝。
2時に山口トヨタでオイル交換を済ませた。
金光教天草教会の由布さんがFacebook投稿された夕陽で日記を飾ってもらいます。
きのう日記に書き忘れ。
「あだち美術館」更新しています。今回は萩八景遊覧船企画、海におちる夕陽を眺めた場面です。どうぞご覧ください。
金光教小浜教会の田中教会長(81歳)が胃と肝臓のガンで治療はできない。延命処置で毎日をおくっている。22日の火曜日「あだちさん」とかぼそい声でそのことを電話で伝えてくれた。
会話がかなわないお葬儀に行くより、会話ができるときに行こうと仕事の調整をした。
きょう先生が私との縁を紐解いてゆっくり語ってくれた。約40年前、教会で様々な問題がおきて(その具体的な事柄を聞いた)もう教会長として神様のご用はできないという場面になっていた。心の回復で病院に通っていた。
そのドン底のとき私と金光教本部で出会った。当時、本部で金光出版という看板をあげ「ぎじろくセンター」別会社で出版会社の経営をしていた。
ビジネス(金儲け)ではなく、金光教独特の教内用語で執筆される全国の教会があり「取次」「取り次ぎ」という表記がバラバラだった。世間に出しても通用する金光教の出版物を出そうという願いではじめた。毎週の金曜日から日曜日は岡山県金光町の本部(ご霊地)の仕事場に座っているだけで、全国から参拝される教会関係者が教会記念誌や偲び草など出版の相談に立ち寄ってくださった。
小浜の田中先生はなんとなく立ち寄られ、教会長を辞めたいという話を長々された。それ以上のことは日記に書いているので割愛。
2時前に起きて3時半までに小浜に行く準備をした。
3時半から4時までの運転時間は12時間半。走行距離は590㎞。
小浜の先生と1時間、手を握ってしっかり信心話が出来た。互い口にはしなかったがお別れはできた。
明日の長崎県小浜行きのため、明日の萩市など配達をいつもの5時半スタートで金曜日がはじまった。月曜日からの疲れがずっと尾をひいている。
8時半、携帯電話から離れたとき着信があった。その電話番号は私の登録にはない。折り返しをして出た先は「山口・宇部医療センターです」1週間前の金曜日にかかりつけ病院から「紹介状」を持たされ、戦前から結核伝染病棟があった山陽荘を受診した。半日の精密検査で右肺の経過観察は、血液やいろいろな検査で全く異常はないが影がある。おそらく過去に肺炎をおこし治癒した跡が影になっていると思うが1ヶ月あと再度CTで細かく診たい。それで終わっていた。その病院は診察9時半、その1時間前に電話があったのでドキドキ。おそらくガードマンの対応で、どこから発信したかすぐに調べて折り返します。ドキドキ。
電話が着信した。相手は私を診察したドクター。もう心臓はバクバク「あのですね」頭もバクバク。来月の診察日に急用が入り診察予定日の変更だった。
明日お見舞いに行く金光教小浜教会の着信履歴をその電話騒動(私の勝手)で見た。私の登録は金光教小浜教会だったが電話は携帯電話だった。
ということは、見舞い相手は教会ではなくどこかの病院かもわからない。
事前に行くと告げたら心配されるので黙って、突然行く予定だったが確認の電話をした。ご本人が電話を受けられた。いまは教会で横になっているが、明日の土曜日は抗がん剤治療で小浜から遠い大村市の病院に行くと言われた。
その電話のあと小浜まで車で30分ほど、諫早市のビジネスホテルを土曜日で1泊予約をした。明日はゆっくり走ってホテルで休んでというシナリオになった。
ところが数時間後に奥さまから電話があった「主人の意識がハッキリしないまま、明日は抗がん剤治療と言ったようですが土曜日は在宅しています」とのこと。
ホテルにお詫びしてキャンセル。
すべて予定通り。明日は長崎県日帰りで日曜日は湯田温泉で生ビール。
今朝「あしながおばさん」から毎週土曜日に元気たまご20個のお届けに大谷春樹くんお宅に行ったら本人が受け取ってくれた。
土曜日、萩市から長門市に美祢市の配達を明日の金曜日に変更させていただくお願いが終わった。
土曜日、金光教小浜教会(長崎県)の田中先生を見舞いで日帰りする。世界中の道路を知り尽くしている牧さんに今朝電話をした「小浜に行く最短ルートを教えてほしい」と言うと「なぜ早く行く必要がありますか、足立さん以前は九州中を走っていたので景色を眺めて思い出をよみがえらせたらどうですか」とアドバイスを受けた。ごもっとも!佐賀から有明海沿いで時間をかせぐより、大村湾を眺めて走っても時間に大差はない。
福島原発の処理水放出がはじまった。
いまになっては福島原発は負の遺産扱いに為っているが、原発稼働当時から水素爆発までは原発で地域が潤う宝の原発だった。マスコミも異議を唱えなかった。
福岡県矢部村ご出身。龍笛を教わった⚪⚪三男さん。満蒙開拓団に志願して満州に渡った。花嫁候補が内地から送り込まれて結婚。
田舎の三男は長男が家督を継ぐから生きる糧はない。学校を終えて開拓団として新天地にむかった。
サイパンやテニアン島など内地では働き場がない人が農業や漁業でひと旗あげる夢を描いて行った。
大平洋戦争開戦は中国大陸や南方の島々に出ていく夢の始まりだったように思う。マスコミもそれを煽った。そして敗戦。
マスコミも国民も戦争責任は東条英機といまでも言う。
原発welcomeだった多くの人たちは責任を推進した政党や東電の責任にしている。
今朝の唐戸魚市場。千葉県銚子のイワシと仙崎のキビナゴを買った。
きのう日記に続く。
ご案内した早島教会「玉井光雄師(故人)」と囲炉裏の部屋で夜があけるまで神心を習った、長崎県小浜教会の田中先生は、迎えに行った私の車に黙って乗り込み、高速道路を約3時間まさに高速移動(ノンストップ)小郡駅在来線口に着きおろした。
田中先生は泣いておられた、私の両手を握って「教祖様に会えました、これから頑張る力をいただきました。ありがとうございます」と感動の別れになった。
あの日から約30年、金光教教師として小浜の地でりっぱにご用をされた。命のゴールが見えて5月に奥さまと二人で岡山県の金光教本部と早島教会にお礼の参拝を2泊3日かけて(体力がない)すまされた。けれども「足立さんにお礼を申しておらん」とかぼそい声での電話を受けた。途中で途絶えて奥さまにかわった。
病床から命がけの電話をくださった田中先生(81歳)に私がこたえることは励ましではなく、お別れに行くことしかない。
以前の私は宮崎県の日帰り営業をして、翌日は島根県から広島県を走る体力があった。
土曜日の萩市など配達を金曜日にお願いする連絡をしている。それが整えば土曜日に長崎県小浜を日帰りする。
日曜日は体力回復で湯田温泉。生ビール飲んで休憩室で昼寝ができたらリセットできる。
見つけた日陰でひたすら眠る猫がいた。
きのう夕方届いた写真。
20年以上前からおつきあいしている呉明美(お・みょんみ)がお子さん2人をマレーシアの学校に3年間留学させるため福岡空港。長女の美雨(みう)ちゃんと次女のそっちゃん。後ろの男性はパパ。
明美さんの実家は、木曜日に配達している韓国料理店「てじょん」先週のお届けでお孫さんたちとしばらくの別れ、異国で生活の心配などをお母さんは言いながら「マレーシアでの英会話も3人で勉強したから、大きく成長して戻ってくる」と。
「足立さん行ってきます」と写真に添えられた言葉に彼女が子供と夢にむかってフライトする決意が読みとれた。
きょう思いがけない電話があった。
かぼそい声でボソボソ言われ、電話の着信で九州の金光教教会の教師(教会長)はわかっていたが聞き取れない。その電話を奥さまがかわり事情がわかった。
昨年、胃ガンが見つかったときはすでにステージ4。医師は積極的な手術はせずこのままでと言われしたがった。
今年の5月、金光教ご本部。信心を導いてくださった早島教会に体調と相談しながら2泊3日でお参りしました。
農園に行きたいと申していましたが体力が底をついて叶いませんでした。
今朝から「足立さんの声が聴きたいというのでお電話しました」
40歳のころ、金光教早島教会の玉井光雄師(岡山県)にご縁があり、先生のご信心(先生は信心を神人と教えてくださった)に惚れ込み早島通いをはじめた。
そのなかで、玉井先生が教会で話されたこと、講演会に呼ばれて話されたことを録音した。それを文字におこして何冊か出版した。初版は「神様にかみついた話」これだけ困っている人を助けなんだら、神様、ワシはかみつくぞ!と祈りまくったストーリー。
九州の教師で、それはいろいろな事情があり教会存続の危機にたち、教師をやめる覚悟の教師がおると聞いた。ご縁がありその教師に金光教ご本部でお会いした。意気消沈、肩をおとしている教師に「私が尊敬している教師に会ってみないか」と数冊、出版した本を手渡した。
後日「会わせてほしい。事情で岡山までオートバイ(原付)で行くからお願いします」在来線で小郡駅まで来てください。そのあとは私にまかせてください。
小郡駅で合流して早島教会に連れて行った。私は「明日の8時に迎えに来ます」と早島教会の奥さまにお願いして私は倉敷。いつもの居酒屋からスナックを楽しんで定宿のビジネスホテルで轟沈。
翌朝、早島に迎えに行った。
早島から小郡駅まで教師は沈黙。不機嫌なのかわからない。
小郡駅で「着いた」とお別れで握手をしたときはじめて口をひらいた。
両手で私の手を握り、ありがとうございました、教祖に会えましたと泣かれた。
以後、先生は早島教会通いで心か元気になり神様のご用に専念された。
先生は何歳になられましたかと奥さまに聞いたら「81歳です。あれから約30年神様のご用ができました」
長年愛用した私と家内の二つ折り携帯電話。なにも不都合はないけれど数年先に電波の都合で使えなくなる。先週の水曜日、美祢市のdocomo店にどんな機種があるのか見る目的で立ち寄った。店員さんに目的を告げたら「1円携帯電話があります」と、いま決めませんかと低姿勢。
その1円携帯電話。買う側にはわからない業界裏事情があり1円。つまり泣いている人が1円の背後におられることはなんとなく知っていた。
1円ではない機種は約4万円。家内とふたつで8万円。2円と8万円の差に建前は負けた!
使い始めてわかったこと。旧式の携帯電話機能が1円より数段機能がよかった。例えば旧式は、夜9時に電源OFF、朝4時に電源ONが設定機能でできたが1円はできない。使い方に慣れなければならない。
5時すぎ農園スタートしてゴールまで、山口市・美祢市に小野田市を走った。
3時起床。
5時から6時までEテレ「心の時代」中国語はだしのゲン(10巻)を翻訳された女性を紹介する番組を見終わって草刈正雄に変身。
5時までに犬の世話と私の朝食を済ませ、草刈機や水筒の用意など準備を終えていた。
ショルダー草刈機に竹でも切れるチップソーの刃を着けて広い面積に挑んだ。ゴムキャタピラーのハンマーナイフでこの場所は60分で刈っていたが、イノシシがミミズクの補食で耕したようになり石が地表に浮いてしまって刃が傷むので使えない。
6時から9時までズボンまで汗で濡れる作業をして面積の半分を刈った。年寄りの体力は限界に達してウルトラマン胸の赤ランプ点滅。
シャーワで汗を流しクーラーと扇風機で身体をクールダウン。
本日の第2ステージは、長門市三隅「NPO法人きらり」の代表、村岡さんとスペシャルオリンピックス山口代表理事の松村さんを「挨拶」で引き合わせるミッション。
美祢市で11時に合流できた。松村御大は下関掃除に学ぶ会で内日中学校の掃除を終えて美祢市に来られた。
松村御大が運転手でランチにむかった。魚が旨い店は長門市界隈にたくさんあるが、酒を呑まず魚もないのでFacebookで知った長門市のカレー店に直行。血液型Aの私は、先週の土曜日にお店の場所をしっかり確認していた。
若いお客のなかで高齢の男が二人テーブルを囲んだ。
村岡さんと松村御大とのご挨拶。きょうの一石は大きな波紋になるだろうと予感した。
農園を始めて三隅の村岡さんからたまごの配達の連絡受けて20数年、毎週土曜日にお届けしている。日置農業高校の先生だった記憶はあった。
2ヶ月ほど前、配達に行ったとき村岡さんと立ち話。知的に障害がある人が犯罪を繰り返す社会としての彼らの受け皿を考えている。
その立ち話で村岡さんが描いている夢を実践しておられることを聞いた。
三隅で障害をもった人たちと生きていくさまざまなことを実現しておられる68歳。
村岡先生(農業高校から)私と先生とのご縁は何でしたか?と不躾なことを聞いた。
宇部市床波の長生海岸で昭和17年におきた長生炭坑水非常(水没事故)は183名もの人が亡くなった。その約130人は朝鮮人、中国人や沖縄の人だった。
40歳前だった私は故郷でおきた海底炭坑水没事故のことに関心がおきた。当時、沖縄に戦歿者の戦没者ご遺骨収集奉仕に金光教のひとりとして通っていた。
長生炭坑の水没事故が「強制連行された人(朝鮮人)」だったから謝罪と補償を言う市民団体に、私は「ちがう」という旗を揚げた。
「強制連行」は昭和19年、敗戦まぎわに国内の労働力を補うためにはじまった。長生炭坑水没事故は昭和17年。つまり「募集」で働きに来た外国で「強制」ではない。西岐波小学校の昭和17年の在校生に朝鮮人の生徒はある。家族で働きに来たことは疑いはない。
その私が書いたレポートを、KRYの磯野恭子(取締役)の目にとまり会いに来られた。中国黒竜江省の残留日本の身元引き保証人など社会問題にアンテナをはっていた磯野さんが「長生炭坑」を各地で講演されるようになった。その運転手で私は活躍した。
農業高校教諭だった村岡先生はテレビで磯野さんの長生炭坑を知って「人権教育」にと講演依頼され、その講演で講師運転手の私と出会ったことがきょうわかった。
その後、磯野恭子(やすこ)さんは長生炭坑をテーマにドキュメンタリー番組「海鳴りのうた」をつくり、その年のドキュメンタリー番組として国内最優秀賞を獲得された。
沖縄ご遺骨収集奉仕、スペシャルオリンピックス、掃除に学ぶ会に「たまご」の配達。私が歩んだ人生が「きょう」につながった。
木曜日、ビールのあとから冷えた白ワインを1本飲んだ。きのう金曜日はビールのあとから箱の赤ワイン(安物チリワイン)をコップで何杯も飲んで寝た。
農園独り暮らしで酒のブレーキは自分でかける。なかなかブレーキを踏めない日が多い。血液検査で診断される項目の中性脂肪・血糖に異常があったことはない。肝機能をいつもビクビクしながら「どうですか」と聞く。今回も聞いた「お酒はどのぐらい飲まれますか」と聞かれて、ドキッ!「やっぱりか」けれども平静をよそおい嘘をつく「毎晩ですが、缶ビールを1本だけ」と言う「肝機能、とてもよい数値です。缶ビール1本がよいですね!」と太鼓判をいただいた。
3時にスッキリ目がさめた。5時に萩市に向かう準備をしながら空腹感がない。
きのう検査が終わり昼をどこで食べるか決めるとき「長崎ちゃんめん」があった。「野菜たっぷりちゃんめん」に決めた。その量が多く時間をかけて完食した。夕食は家内が焼き肉をつくって帰った。
その満腹感が今朝まで持続していた。納豆、豆乳にバナナを少しが朝食になった。
萩市から長門市に美祢市の配達をすませて11時に農園ゴールイン。家内が自宅から来て野菜に焼き魚の昼ごはん。
12時から2時半まで農園内の草刈正雄。
サウナ10分で出てくる汗より大量の汗を健康的にかいた。草刈りなど農園作業を心配してくれる仲間がmont-bell製品のシャツをプレゼントしてくれた。「通気」「速乾」「制菌・防臭」のVネック。値段を見たら2640円。そのシャツを洗うためのネットも添えてのプレゼント。
そのmont-bellを着て長袖シャツで炎天下の草刈りをやった。たしかにシャツ効果は、大量の汗をかいても気持ち悪くない。つまり乾燥している。
明日は夜明けをまっての草刈り。シャツはネットに入れて洗ったら30分で乾くらしい。明日もシャツを着て快適に働ける。
写真は、道の駅「さんさん三見」から鯖島を望んだ。
2週間前、第一病院で血液にレントゲンなど検査項目すべての結果を聞かされた。予定では次の血圧検査の9月中ごろでよかったが「検査結果について説明したいことがある」と連絡が携帯電話にあったので聞きに行った。
肺のレントゲン撮影で右側に気になる「小さなくもり」があるとの診たてを告げられた。県内で肺については「山口宇部医療センター(前身は、結核病院の山陽荘)」に紹介状を書くのでいつがよいか。8月18日の金曜日にお願いした。
2週間、そのことを考え続けることになった。最悪のことは「肺ガンです」と告げられても私の仕事ができる者はいない。
放置して、その先がどれだけあるかわからないが、私の仕事ができる人を探す時間にあてる。寿命はあるので、それを聞いたほうが生き方がしゃんとする。
専修大学野球監督だった今村明さん。毎日、畑に通い汗をかいた。大学の野球キャンプに毎年通われていた「ガン」がみつかった。その日、病院の帰りに奥さまと農園に立ち寄られ「ガンだった」奥さまは「抗ガン剤治療をしても、ハゲ頭だから心配ないね」と笑いを誘われた。
その治療は人によって効く、効かないがあるらしい。今村さんは最初の治療で身体に大きなダメージを受けられた。口内が真っ赤に腫れあがる口内炎ができて食べられない。みるみる巨漢は痩せ細った「もう抗ガン剤治療は絶対やらない」とベッドで言われた。その日から1ヶ月ぐらいあとに亡くなられた。
もし最悪のことを告げられたとき、私はどう言おうか、そのことを考える2週間。
その台詞は あと何年ですか。治療はしません。最後の痛みはないように頼みます。
周防灘を一望できるロケーションに医療センターはある。カメラをもつ気持ちになれなかった。
採血は5本たっぷりとられた。最新鋭のCT機材で撮影。12時前に検査結果の丁寧な説明を受けた。画像から推察する病気は「結核」それを血液などから入念に調べたが結核や何かの感染症ではない。結核は周囲に感染するからガンより悪いかもしれない。
1ヶ月後にもういちどCTを撮って経過を診る。それで問題なければ大丈夫とのこと。
「階段を歩いたら息切れするか」「咳はでるか」「タンはでるか」など問診があった。血液中の酸素濃度もバッチリ。9月に再検査になった。
生きることを切実に考えた2週間だった。
「あだち美術館」更新しました。夏を満喫してください。
以前、日記に書いた。
25年ぐらい前、唐戸魚市場常務取締役の中尾友昭さんと冷える2人で内蒙古自治区(旧満州)1週間の旅をした。
北京空港から双発プロペラ機で、香月泰男が奥さまに300枚以上も自筆の絵葉書を書いた「ハイラル通信(香月泰男美術館展示)」そのハイラルまでの空路でご高齢の日本人男性が3人同乗された「どこに行かれますか」と聞いたら「慰霊にノモンハンまで」と短くこたえられた。ノモンハンは後々で何があったかを学んだ。その3人は地獄を体験された人だった。
代表作「日本でいちばん長い日」半藤一利さん「ノモンハンの夏」を美祢市でお借りした。
半藤一利さんは「日本でいちばん長い日」を書き上げるにあたり、玉音放送を中心に、それに関わった陸軍、海軍に放送局の重要な面々を一同に集めて取材をされた。つまり、嘘が言えないし誇張できないという場面をつくる手法だった。その「ノモンハン」帯は(参謀本部作戦課、関東軍作戦課。このエリート集団が己を見失ったとき、悲劇ははじまった)
「おいてけぼり京城陸軍病院(しんやけんじ著)」は藤中さんから拝借した自筆出版。
戦争を知らないから8月には読みたい。
テレビ番組も戦争を録画している。
日曜日の午前5時。Eテレ「心の時代・《はだしのゲン》と父 翻訳者・坂東弘美」
広島の被爆者・中沢敬治さんの漫画《はだしのゲン》。中国語版翻訳者の坂東弘美さんは、広島の惨劇とともに戦争責任を鋭く問う作品に、自らの人生を重ね合わせてきた。
坂東弘美(女性)の父親は中国各地を転戦された。なかでも「大虐殺」があった、なかったといまだに論じられる南京攻略にも加わられた。
戦後、戦争のことは一切語らなかった父親が、人生の最後に娘に宛て300枚以上の手紙を書き残した。中国で何があったか、何を自分はやったかが書かれていた。
たくさんの中国人の命を奪った父親から命を授かった身として人生を歩まれ、私の記憶では中国でアナウンサーもさせたほどの語学力をつちかわれ「はだしのゲン」全巻の翻訳をされた。
5時に農園スタートして4時にゴールイン。真夏の下関が終わった。
愛用のガラ携電波が数年先に使えなくなることは知っていた。
私の携帯電話歴史は30年ぐらい前からはじまった。吃音(どもり)の私が苦手だったのは電話だった。電話を遠ざけている私を尊敬していた人が、私のことをおもって叱りつけた「大切な電話を奥さんにさせることはやめなさい」と。
一念発起できた「日本セルラー」というメーカーの携帯電話を買った。おそらく30万円ぐらいと覚えている。通話するときはアンテナを本体から引き出して使うとても大型で重たい電話だった。バッテリー消耗がはやく、大型の「L」を2ついつも予備で持っていた。エリアごとに私から届く電話番号の先頭に「030(山口圏内)」と忘れたが別の番号が相手の電話に着信する。宇部空港沖で魚釣りしながら会社に「いま岡山に着いたが」と電話したら「えっ!」となったこともある。
次は通話料金が安いPHSが出た。安いけれど高速道路の移動中は通話できない欠点があった。パソコン通信モバイルツールとして私は使った。
ポケットベルにもたくさん思い出がある。最大5県エリアで使える。山口県、福岡県、佐賀県、宮崎県に岡山県エリアに登録していた。長崎県や大分県に広島県は登録エリアのはざまでまったく支障なく受信していた。驚いことは釜山で「福岡県」エリア表示で会社から着信したとき。
いま使っているガラ携電波は数年先にアウトになる。買い替えるチャンスがあればと宇部日報(ローカル新)のdocomo店の広告で安く替えるチャンスを待っていたが出なかった。
「一円で機種交換」が話題になった。ところが「一円」の背景には問題が数々あると報じられた。
配達を終えてdocomo店に立ち寄った「家内と私のガラ携を安く交換したい」と目的を告げた。5機種の新しい規格ガラス携を並べて、そのうち3機種は「一円です」と。
一円で新機種と交換して、そのうえ毎月の支払いがダウンするという不思議な営業が展開された。私の携帯電話を一円で交換。明日は家内の電話を交換。二円で新機種になる。
Wi-Fi環境。家内は格安スマホでLINEなどを使っている。私はAndroidのタブレットでブログやLINEを使っている。
網戸で快眠。4時に起きたらよい火曜日だったが3時に目がさめた(実は2時だった)。犬2頭を外に出して小便。部屋に戻って100分で名著「覇王の人(第2回)」を見た。信長の尾張と家康の三河地域が人間形成に大きく影響を与えたことを学んだ。
司馬遼太郎は「長州路」で長州人気質を「灰かぐらをあげるやかましさ」一方では、奇兵隊の財を一手に引き受けた豪商の白石正一郎が財をすべて維新に使い果たし赤間神宮初代宮司ご用をされたとき、子孫が新政府に使い果たした財を求めないようすべてを消した。その長州人気質の両輪で日本が動いたと記している。
テレビを見終わったとき時計を見たら3時。4時まで掃除をすることに決めた。部屋に掃除機、トイレと浴槽は汗をかいてピカピカにできた。
台風が和歌山県に上陸。新宮市で主人のお母さんと一緒の照美さんに短くLINEで励ました。
10月1日。萩市浜崎の「御船倉」で催される神田京子さん講談。私の仲間8人と神田京子さん催しでは顔役の新保さん9人。
せっかくの萩なら「どうする家康」今朝、明倫学舎に「小川コレクションをご案内してもらえないか」とメールを出した。そのお返事。
🔶
おはようございます。
萩・明倫学舎推進課の高杉と申します。
3月に鈴木先生の講演会にお越しくださり、ありがとうございました。
また、このたびはお問い合わせありがとうございます。小川コレクションのご案内ということですが、ガイドがおりますので無料でご案内させていただきます。10月1日の来館予定時間をご連絡いただけると幸いです。
重枝さん、徳重さんと聴講したとき女性司会の高杉さん。講演お礼のメールを出して「明倫学舎Facebook」をフォローしていた。
ランチは「萩暦」をセッティングしたいと思っている。
レントゲン検査で右肺に気になるところがあると主治医が見つけてくれてCT検査をした。その結果、金曜日に肺が専門の「山口宇部医療センター」に行くことになった。その予約を受け取りに行った。封筒のなかにはレントゲン写真とCT画像が入っているらしい。
3時前、月曜日の配達から戻った。
車内に表示される外気はあてにならない。それにしても小野田市走行中に37℃になった。農園に戻ったら33℃。
シャワーでさっぱりして「Takara 焼酎ハイボール(ドライ7%)ロング缶」で疲れをリセットしながらの日記更新。きのうに続き網戸から吹き込む涼風でクーラーは使わない。
金光教太秦教会でご用をしている長女の照美さん。主人であり教会長は和歌山県新宮にご高齢のお母さんが独り暮らし。
きのう家族LINEに照美さんから「新宮に着きました」と荒れる海の写真を添えて報告があった。台風が上陸する予想の和歌山県に行かなくてよいのにと思ったが、着いているので言わなかった。
心の感度が鈍い私は、きょうのお昼ごろ照美さん夫婦が新宮に行った理由がやっと理解できた。よく行った!
関門海峡を眺めて弁当をひろげた。
13日の日記をはじめた午後3時半。
部屋のクーラーは使わず、窓からとどく風で快適。山の木々にかこまれ厚東川も側を流れている。冷たいビール(ロング缶経由で普通サイズを楽しみながら)は格別。ビールのあとは冷えた白ワイン(安い)をガブガブ飲みたい。
草刈り難易度のたかいエリアがある。そこはツルを張ったしぶとい雑草が地面から重なってはびこっている。さらに隣接の耕作放棄地には私の腕ぐらいに成長した木が成長している。
きのうホームセンターで草刈機に装着する刃を入念に選んだ。愛用のショルダー型草刈機は、10数年前から手入れしながら使っている。いまは安全装置など付いているがこれにはない。農協で一番馬力が大きなものを買った。重たい。
刃は草ではなく竹や木々を伐採できると銘打った高価な商品を選んだ。
実は、このエリアに挑もうと見た目には切れそうなチップ焼き入れの刃を買った。二枚で1000円に気持ちが動いた。その一枚を装着してエリアに先週挑んだ。まさに歯(刃)が立たない。
私が草刈りに使う道具は3種類ある。①ゴムキャタピラーで前進する「ハンマーナイフ」②丁寧に地表すれすれまで刈るときは硬いビニールヒモ③竹や木々が生い茂る場所はチップの刃。
今朝は②と③を駆使しての草刈り大作戦。
6時にエンジン始動のため4時起床。ヨボヨボ歩行の老犬と有り余る元気の2頭の世話を済ませて私の朝食。
やっぱり道具と思った。腕ほどに成長した木をスパッと切り落とせる刃は気持ちがよかった。広範囲にショルダーで草刈りをおえてシャワーでさっぱりしたのは9時前。
湯田温泉の「温泉の森」一番のり。サウナとジャグジー湯をしっかり楽しみ休憩室で昼寝もできた。体重は2kg減って63kg(風呂から出るとき)
写真は2年前、淳貴くん家族が美祢市に来られたとき神功皇后神社を案内した思い出の一枚。
今朝7時。長門市野波瀬港の風景。
港の側のお宅に毎週お届けしているが、今朝はお寺さんがお経をあげに7時に来られるので早く届けてほしいと300個のご注文。
お盆には仏様にお坊さんのお経を聴かせてやりたいばあちゃんが法事いっさいを取りしきっている。その号令で家族に親族がこの日、この朝は集っていた。
「ならば、そのことを理論的に証明してください」という理屈で動いているようでも、お盆には故人が戻ってくるという証明できないことでご先祖に想いをはせるお盆。
アンデスやマヤ文明、日本の縄文時代も理論的に証明がつかないことに敬いと畏れをもって自然と共生してきた。
「偶然」「なんとなく」「わからんけど」を生活の端々で感じることがたくさんある。
そこには人工知能では解明できない世界がある。私は、そのことにたくさんの体験がある。
きょうはお盆の金曜日「あだち美術館」は、5月、不慮の交通事故で亡くなられた松前了嗣さんの追悼をすることに決めていた。関係者みなさんにお願いして初盆にあわせ追悼の言葉をお願いしていた。
松前さんを偲ぶことができる、Facebook投稿も集めて準備は整っていた。が、編集は未定。
数日前から8月11日が気持ちの奥でチクリと気になっていた。
平成2年8月11日、立川冨美子先生は87歳でお国替えされた。その冨美子先生の子供、立川和正先生は私の中学2年と3年の学級担任(3年の秋、事情で中学教師を辞め金光教教師の道に入った)。
私を育ててくれた恩人であり、その恩人とさまざまな事があり、農園をはじめる数年前、私は背をむけた。葬儀には参列した。誤解が互いにあったのではないかと今では思う。
中学1年から2年になるときのクラス(50人×15クラスあった)編成で教師が誰も「足立進」をとらなかったらしい。立川先生が「足立進」を引き受けた。
山大工学部の用務員の母と二人暮らし、参観日や運動会に母は来られなかった。運動会の日曜日は人の日直をして家計を支えた。私の友だちは同じような境遇だった。
2年の夏休み前「おまえキャンプは好きか」と担任がこっそり聞いた。キャンプをしたことはないが「好きじゃ」と返答したら秋吉台キャンプに誘われた。金光教フォーゲルという組織の隊長を担任はしていた。参加費は要らんから米は持って来い。母は米だけで2泊3日預かってくれることに喜んだ。
その秋吉台キャンプ。飯ごうのお米とお湯を間違え、お米が炊けたと思ってお湯の飯ごうをひっくり返した。軍手に熱湯がかかった。軍手はそのままで隊長はマツダキャロルに私を放り込んで病院に急行。私は指の痛みと治療費のことで唸った。その治療費は隊長が払って終わった。
その出来事が私と金光教とのご縁。後日「教会に行こう」と母を誘った。母は教会の入り口で「あっ!」と声をあげた。
9人兄妹の長女で、小学校をおえて松江に奉公に出されたとき、その店の女将さんが毎朝、金光教松江北掘教会に人力車で参拝され、母はそのあとを走ってお供させられた。その教会入り口に掛けてあった旗と同じものがあった。
秋吉台キャンプがなかったら悪友たちと人生を歩んでいたかもしれない。野外活動で人生の転機があった。
30年ぐらい前のこと。
東京在住で金光教ご信者さんが参拝の教会で「ご先祖はどうなっておるか」と問われた。調べてみると宇部市内の教会に参っていたことがわかった。そこで、当時、市内に6つあった金光教の教会に電話をして⚪⚪(姓名はふせる)をご存知ありませんかと聞いた。そのとき冨美子先生が電話応対をして「⚪⚪さんは私の教会に参っておられ霊人簿にお名前がある」ということになった。
東京のかたはご高齢で「お骨をこちらで供養したい」と申し出られた。そのことが私にご用ということで申し付けられた。
市役所で⚪⚪さんの墓を確認して昼間に行って小さな墓石を確認した。その夜お骨を掘りにひとりで行った。割れた骨壷のなかに骨はなく土だったがそれを袋に詰めた。そのあとのことは知らない。
その掘った墓地のなかに立川家の墓を見つけた。20数年前お参りしたときの墓とは別の新しい墓になっていた。いろいろな事情があったのだろう。
20数年前、広い墓地の記憶は全くない。麦わら帽子でペットボトルを持って探しはじめたら、わずかな時間でまるで導かれるように墓の前にたった。
湯田温泉「温泉の森」でさっぱりして「あだち美術館」更新の予定で行ったらお盆で駐車場は満車状態だったのでパス。更新にWi-Fiを長時間使うのでフジグラン(商業施設)のフリースペースの小さい机を確保して90分かけて松前了嗣さん追悼ができた。
墓地からフジグランのあいだに菊川画廊立ち寄り。人工知能ではおよばない世界がある。という話しに花を咲かせた。
木曜日、いつも5時に下関にむけて出発しているが、昨夜の強風で2号線に出るまで道路に倒木や落石があることを想定して、夜明けを待って6時に農園を出た。案の定、県道には竹がしなり道を塞いだり枝が折れ散乱しているところがあった。
長府から唐戸までの関門海峡沿い(黒門)は台風時には海水が道路まで越水して通行止規制がよくある。そのときは長府トンネル経由で下関市内に大廻りして入る。今朝は規制がなく唐戸まで走ることができた。
市内のお届け先みなさんにLINEなどで「延着」予告を出していたが延着はなかった。そのカラクリは唐戸魚市場をスルーしたこと。赤間神宮駐車場から魚市場往復の時間は40前後になる。
関門海峡に一隻の船舶も見えない荒天。当然、市場も休場だったろうと思っていたが、配達先の鮮魚店でそれを話題にしたら、北浦や博多などはなかったが防府など近海の鮮魚はあったらしい。
写真に日付と撮影時間を入れて撮った。たまたま在宅の松村御大。
長年のお付き合いで会話にベルトをかける方法は知っている。話の結論に至るまでの方法、そこで私が何をやるのか。テンポよく会話を交わしたら終わり。
二つのことをテーマに会話のベルトをかけた。
催し二つご案内
菊川画廊「版画との出会い展」
9月3日~9月23日 AM10:00~PM6:00期間中無休
〈出品作家〉オレノ・ドーミエ/サルバドール・ダリ/ジョルジュ・ルオー/田上充克/工藤 彰/吉松順一郎/縄田也千/加納光於/@梅田恭子/吉茂田杏子 他
数々の作品のなかで、私が観たい作品にオレノ・ドーミエ作品。約100年前、フランスで風刺画作家として著名らしい。
私は最終日の23日、土曜日の午後に画廊にまいります。ご一緒できるかたはお知らせください。
神田京子講談 御船倉
10月1日 萩市浜崎旧萩藩御船倉を会場に盛り上がります。13:30分会場14:00開演 木戸銭1500円。
チケットご希望の方は8月12日土曜日までに私宛でメールでお知らせください。
萩ミニ観光とランチをセッティングします。
100分で名著。今回は司馬遼太郎「覇王の人」を4回で読み解く。解説は、代表作「家康(8巻)」の歴史作家 安部龍太郎さん。
第一回を録画して2回再生して学んだ。
三河気質の家康は司馬遼太郎にとっては好きではない人物であるが、歴史作家としてスルーできないテーマ。と安部さんの解説がはじまった。
作家の手法としては主人公のキャラクターをしっかり散りばめる。そして、このキャラだからこれ程の偉業をなし得た。そこに史実としての足跡を重ねてストーリーを作りあげる。
私が「面白い」と思ったことは気質。つまり、生まれ育った風土が人格形成をする。三河気質は耐えて耐え抜く辛抱人。かたや信長の尾張は賑やかに生きる経済が風土。
司馬遼太郎は家康に向き合って、だんだん惚れ込んでいると、作家は主人公に惚れ込んでいくものだと語られた。
25分×4回番組で私にはちょうどよい番組。毎回2~3回は観て理解を深めている。
2年前の想い出を残しておこう。
11月、古希をむかえるその日までに二つのことをやり遂げた。
「人生の車窓」
若いときからの出来事を「車窓」から眺めるように追想した。子どもたち3人に残しておこうと始めた。約1年かけて、毎週金曜日に湯田温泉「温泉の森」に通い続け休憩室のリクライニングシートでタブレットに指1本で入力した。
誤字脱字や文脈の訂正などの推敲は藤中さんと淳貴くんお母さんに何度もお願いした。
短期集中決戦型の私が1年もかけてコツコツできたことは古希の金字塔。
「ポストカード」
古希の記念に夫婦で近場でもよいので泊まりに行こうと1年ほどポケットマネーを貯めていた。
日記やFacebookで新本淳貴くんのパステル画を紹介していた。古希の記念に淳貴くん作品をポストカードにしたらどうかと提案が届いた。
貯めた旅行資金を全部使い淳貴くん作品10点×500組のポストカード制作に取り組んだ。
糸賀さんオフィスのデザイン室の河上さんにポストカードと案内チラシをお願いした。パステル作品の撮影から始まった。「人生の車窓」は河上さんに頼んで原稿用紙に文字を流し込んで完成した。
ポストカードは1000円×500で完売。売上金の全部をバーバラずプロモート倶楽部に寄贈した。
古希の旅資金はすべて使い果たした。なにもないことは残念なので夫婦で3万円で泊まれる光市の国民宿舎を予約した。
ポストカードで私の古希を知った「ぎじろくセンター(私が28歳創業・48歳引退)」の白井社長が私の留守中に農園を訪れて家内に封筒を渡した。
開けてみると大谷山荘別邸の宿泊を古希祝いでプレゼントだった。旅行会社が入り、私の都合で日程などすべてととのえてくれる手はずになっていた。
翌日、白井社長に宇部市内の喫茶店に来てもらいお礼も言ってお返しした。その成り行きで国民宿舎はボクがお祝いさせてくださいとなった。
泊まりに行って驚いた。とても3万円で泊まれる部屋ではない部屋に通され、館内で土産の購入や飲食などすべてサインだけです。夕食は豪華だった。日ごろは飲めない酒を「これ」とメニューからオーダーした。翌朝の土産タイムで家内に「しっかり買ったらええから」とうながした。
白井社長には「ありがとう。嬉しかった」と伝えた。
私の古希は嬉しい二つのことがあり幸せな通過点になった。
「人生の車窓」
ブログ「ダウンロード」に載せています。
月曜日、最初のお届けは山口市といっても長沢の池に近い岡本拓也さんのお宅。6時すぎに着いたとき完全装備で草刈りに向かう拓也さんに遭遇した。
今年の初めから頚椎の痛みに悩まされ、大好物のアルコールも絶って治療に専念しておられる。一時期は会話のテンポも「あれっ!」と思うぐらいだった。
もともと山歩きのベテラン。その拓也さんが力を落としている姿に周囲の仲間は心配していた。
自宅裏のヤブに挑戦すると腰にはノコギリや蚊取り線香をつけ手には草刈機だった。
まだ酒は絶っているようでもここまで元気になった姿に嬉しくなった。
この暑さで稲の天敵カメムシが大発生しているらしい。米農家さんに配達したとき話題にしたら「うちは大丈夫です」と言われた。特別な薬を使うのではなく田んぼ周囲の雑草をきれいに刈っている。
配達から戻りシャワーで着替えてさっぱり。ビールのとき「ぎじろくセンター」白井社長が季節の挨拶に来てくれた。
会議録業界のことをいろいろ聞いても私には別世界のことのように聞こえる。人工知能と会議録作成がどう共存できるか。たくさんの試練に向き合っていることは理解できた。
ずっと日曜日の朝は「もやしラーメン」を食べることを楽しみにしていた。それが数週間前から食べたい気持ちがなくなった。
4時、携帯電話のアラームに起こされ犬の世話。夜が明けた6時から草刈りをスタートしたい。冷蔵庫を開けて、家内がきざんでくれた数種類の野菜をフライパンで蒸す。高齢者の歯には生より柔らかいほうがよい。この野菜に塩分の調味料は使わず魚の粉をふりかける一品。納豆と豆乳にパンをふたつ焼いた。
老犬ハッピーは食欲はない。もう命の限界がきているのかもわからない。
6時に草刈機「ハンマーナイフ」エンジン始動。春から秋まで隣接の耕作放棄地を月に1回刈っている。面積が広いので、水を1500CCと塩飴たくさんで倒れずに働いた。一度部屋に戻り冷蔵庫のスイカを食べて10時に草刈りは終わった。その後、草刈機を高圧洗浄して11時に隣接草刈りの今月は終った。
午後は録画のテレビ番組、戦争に関するもの3つを観た。
スペシャルオリンピックスの女性関係者から、自転車競技の大谷春樹くん自宅に毎週20個、お代は私の支払いで届けてくださいと依頼され先月から土曜日の10時すぎに配達がはじまった。今朝、走り終えて戻った家族に偶然お会いできた。
早朝、東行庵スタート、ゴールで50㎞走った。自宅で少し休憩して、暑いのでこれから80㎞走って終わります!
世界の頂点をめざす親子の絆に会えた。
長門市三隅で障害者(児)の支援を様々な方法でされている村岡さん。1ヶ月前に乗馬セラピーの話を聴かせていただき、さらにスペシャルオリンピックスの乗馬プログラムに関心をもっておられることを知った。村岡さんは農園をはじめてからずっと土曜日にお届けしている。
今月の20日、スペシャルオリンピックス山口の代表、松村御大と村岡さんの「挨拶」日程が整った。私も同行する。
72歳の高齢者には過酷な暑さの連日。明日は重枝さん主宰のお掃除の会があり出席したい。けれども農園の雑草は陽射しに負けずどんどん背を高くしている。
明日は夜明けから草刈りをはじめることに決めた。あわせて台風対策もやっておきたい。
「あだち美術館」更新しました。
今週も引き続きフォト川柳です。40点を載せました。その更新をしているときつくづく思ったこと。例えば、若鮎が跳ねている作品は現場で見ていてもシャープに見えない一瞬をカメラはとらえている。カメラ性能を駆使しての作品は圧巻だった。
そのカメラマン、藤井壌二さん92歳のお宅を訪問して愛用カメラを私が撮った。右下に2023/07/21と撮影日を入れている。私の写真は記録ためカメラ設定で撮影日を入れている。それが数週間前から突然撮影日が入らない。
カメラマニュアルをダウンロードして設定項目を確認した。マニュアルにはそのことが書いてある。けれども私のカメラ設定を何度確認しても設定項目だけがない。
7時すぎに農園を出て小郡の散髪。大衆料金で洗髪してシルバー料金は1900円。だいたい2週間サイクルで通っている。
髭剃りもできサッパリして第一病院。何が第一か知らんけど、10年ほど前に農園地域に第一病院診療所が閉鎖した。私はそこの血圧患者だったので、カルテなどがある第一病院に以後通院している。まぁ老人病院。
2週間前、市から届いた無料の健康診断を「受診せんかね」と看護婦さんに尻をたたかれ受診した。前回はいつだったかわからない。
先日、携帯電話に「肺のレントゲンに気になることがあるので来てください」で散髪のあと第一病院。マイナンバーカードで受付を済ませて主治医(男性)が「CT撮影をここでやって、肺の専門は🔶🌕(ようわからん)病院、昔の山陽荘病院が一番よいので紹介状を書きます」
CT撮影画像を見せながら、右の肺に気になるところがある。と言われても「?」
健診結果、レントゲン以外は大丈夫。気になっていた肝臓数値や尿酸値などバッチリ。
今月18日の9時に山陽荘病院予約をとってもらった。
愛車のタイヤ交換は山口トヨタ。4月交換から走行は20000万㎞をこえた。前輪ブレーキバッドの残りは1㍉などで愛車を預けた。
代車のピカピカ新車で向かった先はカメラのキタムラ。「5年前、この店で買ったカメラです」と前置きして日付設定ができないことを年配の店員さんに告げた。
10分ぐらいして「修理代金1200円ですが?」と言われた。もちろん、お願いします!
愛用カメラを出荷時の設定にリセット。それはお店のパソコンに接続してできるわざのようだった。支払いを済ませたら「長くお使いいただきありがとうございます」と一礼された。
数ヶ月前、もっと高性能(背景をぼかすなど)機能で安いカメラをキタムラにさがしに行ったときは「このCanonカメラは製造していません。とてもよいカメラですから使われたらどうですか」とアドバイスをうけた。
1時から3時でトヨタ整備が終わる。それまで湯田温泉「温泉の森」3時間ゆっくりして「あだち美術館」更新もできた。いつも65kgの体重が1kg落ちていた。
海峡、彦島方向に大型船の後ろ姿。
2日連続の下関。今朝6時すぎは赤間神宮駐車場に車をとめて海峡の潮風をあびなから唐戸魚市場まで歩く。その潮風が生温い。
買いたかった魚は新鮮なアジか丸々太ったイワシ。市場をぐるりと歩いてアジもイワシもなかった。他の魚も少なく唯一並んでいたのはサザエか冷凍のウナギ蒲焼き。久しぶりに手ぶらで市場を出た。
5時に農園を出て、3時すぎに農園に戻った。
ため息が出るほど猛暑の木曜日。予定どおり、間違いない仕事ができた。
寝がけにあおったコップ半分の芋焼酎ストレートが3時までこたえて反省。
水曜日の配達は6時前の小月からはじまる。少し前までは懐中電灯を持っていたがもう必要ない季節になった。
7時、形山スーパーマルキの水汲み場でいつもの10㍑を頂戴した。綾羅木海岸を撮るのは「らんまん」を見終わって8時15分。今朝の響灘もきれいだった。
いつも会話をはずませるお客さまは時間短縮でおいとまして午前中30分程度の時間をつくり「第21回アートビレッジ39パステル画面展in下関市立美術館」に立ち寄りたかった。
きのう日記に載せた淳貴くん作品は松尾さんが撮ってFacebook投稿された。その淳貴くん作品、バーバラの飯田さん作品やスペシャルオリンピックス下関のみなさん作品も併設されている。30分で観ることがかなった。気になっていた淳貴くん作品のタイトルは「トップスター」だった。宝塚だろうかなど考えた。
写真は美術館入り口のトップスター。
いま考え中は、金曜日更新の「あだち美術館」今週更新は引き続き藤井壌二さんフォト川柳にさせてもらおうと思っている。92歳の藤井さんが役立ててくださいとUSBメモリーにフォト川柳を入れてくださった。
不慮の事故で他界された「松前了嗣先生」の追悼をお盆に「あだち美術館」で計画している。その構成も練っている。
愛犬ハッピー(農園生活は16年)がめっきり衰えた。立ち上がった足がくずれる。散歩のとき歩きながらウンチをこぼす。朝は食べなくなり少しの牛乳になった。走らせたら抜群の脚力だったが階段の上がり下りでくずれる脚力になった。
写真は藤中さんが下関市立美術館にパステル展覧会を観に行ってFacebookに投稿された一枚。もちろん新本淳貴くん作品。タイトルはわからない。タイトルをあすの水曜日、時間がとれたら確認に行ってみたい。
火曜日は山口市。
お掃除の松岡さんご自宅は7時半。この時間で気温がグングン上がって30℃。市内を走りまわり宮野あたりでお昼は36℃になった。2時、平川辺りで37℃。
山口市の猛暑から逃げるように農園3時ゴールインは33℃。
部屋のクーラー室温設定はいつも30℃。湿度がとれたらよい。寝る時間の8時にクーラーをとめて網戸。心地よい風が山や川をわたって部屋に入ってくれる。
たまに涼しすぎて1時ごろ目がさめる夜がある。布団をかけて眠りにおちる。
8月を元気いっぱい乗りきります。