水曜日と木曜日は下関市。
木曜日に走りきれない飛び地の配達。5時半に農園を出て6時から配達がはじまる。早朝に出る理由はふたつ。7時からスクールゾーンのなかに配達先がある。長府など朝の混雑を避けたい。
8時に住吉神社。鳴瀬宮司に長年お届けしている。そのおかげで参拝ができる。今朝は宝物殿から「秋の図」が本殿わきで公開されていた。
近くの水汲み場で10㍑。ここの水はとてもやわらかい。
美祢市で色づいたカラスウリが目にとまった。
先週、綾羅木のお宅で新品のお寺さん座布団を「足立さんにご縁のあるお寺に」と預かった。お母さんのご葬儀を自宅でと準備していたが斎場になり新品。
金曜日。尊敬している松月院の末次ご住職のもとに届けた。座布団を預かった理由を伝えた。尋ねられたので綾羅木のお宅のお名前と住所を教えた。
きょう綾羅木に、お寺から託されたお礼の品を持って配達に行くと「このような封書が届きました」と末次ご住職の手紙を見せていただいた。
座布団のお礼とお母さんを回向したいので名前などを知らせてほしいと宛名がお寺の葉書が添えられており、ありがたく葉書を投函されたようだった。
すべてにゆき届いた末次ご住職に感銘を受けた。
農園に戻り防府トヨタの営業マンが来られた。
年末納車、「リース注文書」の押印。
彼のお父さんの実家が農園近く(吉部)ということ。今は安岡トヨタ店長のお父さん実家(小野)も農園近くだった。防府の若い営業マンは保護犬2頭を徳山の保健所から引出し世話をしていることを知った。
ちょぼハウス(スペシャルオリンピックス下関)10時。バーバラ4人に囲まれ時間に余裕があったせいか喋り過ぎた。
長府のカバ隊長の体調はいまいち。家内が栗ご飯弁当を持たせてくれた。禁酒・禁煙と禁欲は続いているらしい。
農園生活をしている建物。一階は作業場でその上が私の住まい「男ヤモメにウジがわく」ではなく、自宅(宇部市西岐波)に戻らずウジがわかない生活を20年、自然のまっただ中で営んでいる。
この夏、猛烈な暑さで衰えをみせているのは柿と栗の木。柿はほぼ全滅。わずかに熟したらカラスが早々につついている。栗も暑さで青いうちに落ちた。わずかに残っているものはとても小ぶり。
それが落ちたらイノシシが夜な夜な食べにくる。餌が乏しくなる冬を前に食べて脂身でたくわえたい栄養源が少ない。
東北ではトチの実が暑さで不作。越冬するクマが春まで耐えられかというニュースをみた。海水温が高くサバなど大量に死んでいる報道もあった。数年前から獲れないサンマも気になる。
コロナに気候変動。地球全体の営みが喘いでいるように思いませんか。
火曜日は山口市内の配達。日中は汗ばむ陽気。一の坂川を撮った。
夕方、配達を終えて農園ゴールイン。愛犬との散歩が疲れをとってくれる。ゆきちゃん(生後1年と半年)の引っ張り癖が徐々におさまりリードがゆるんで歩いている時間が多くなった。老犬は今朝の散歩で首輪の金具が劣化で壊れた「待て!」と言えばその場に座る。野犬生活だったとは思えない。
毎年、1月2日は歩いている。萩市・長門市・山口市・下関市などを起点に。来年の2日はどこから歩くか。3日は松村御大ご自宅に年賀ご挨拶も新年恒例の行事。
足も酒も年相応に弱くなっているから思案している。ぼつぼつウォーキングをはじめる。
美祢市小杉。白虎隊士「飯森貞吉」ゆかりの楢崎家がこの彼岸花の上にある。
日記にそえる一枚を撮る目的で2年前に買ったWi-Fi機能付きで廉価版カメラで毎日を撮っている。背景をぼかしたりする高度な機能はない。せいぜい倍率のひくいズーム機能が使える。
機能で加工せずに「季節感」や「かわいい」など私のアンテナがとらえた場面を撮りたい。
Facebookの投稿写真を、その気持ちで、撮りたいと思う私のアンテナで見ている。新聞や雑誌の写真も見て「これはいい」というときがある。
山口市、瑠璃光寺界わいを撮られてFacebook投稿を毎日されている藤井壌二さんに友だち申請してカメラワークを学んでいる。
NHKテレビのニュース番組で藤井さんをお見受けした。80歳も後半と思われるがカメラを片手の人生を楽しんでおられた。
ご覧の彼岸花。きょうの何枚かのなかでお気に入り一枚です。
トイレのドア故障をFacebookで夜中に発信した。
農園の建物を施工してもらった広島市の永本建設の社長(お掃除仲間)から、業者が行う故障解決方法を何種類かメールで頂戴した。受信をしたときノブの内部のネジが緩んでおり、内部の仕組みに精通した人に頼むことが近道だと判断を終えていた。
治ったことをFacebookに発信したら「すぐに行けませんで申し訳ありませんでした」と永本社長からコメントを頂戴した。
農園の建物建築中に「あとあと、永本建設に頼んでよかったと思いますよ」と言われた。
「ロフトをつくります」と最初の設計になかったものができた。天井に壁と床を全て板張にされた。気がついたら窓ガラスは二重構造だった。そのほか、あとから気がつく隠し味がたくさんあった。
多くの仲間に支えられている。
農園入り口の石碑。
坂村真民先生から頂戴した書を石に刻んだ(542番碑)大切な書は屋内に表装して保管。落款上の「鳩寿一」はよわい91歳を表している。
農園はビジネスホテルのようなトイレとバスが一体型。その扉がロックされた。解決方法はドアノブ下にコインで回る仕掛けがある。過去何度か簡単にドアが開いた。
ところがノブ内部の締め付けがゆるんでおり解決できない。とりあえずトイレは階下にもある。寝る前に使ったら夜中に起きることはない。
9時半に防府トヨタ。それまでに散髪は済ませたい。ノブの故障を正志に伝えて農園を出た。
配達の愛車、現在の走行距離は22万㎞。1月でまる4年を迎えるときは24万㎞ちかくになる。
フリーメンテナンス(車検・オイル交換・消耗した部品交換など全てが毎月のリース料に含まれる)
そのフリーメンテナンスを継続か分割支払いかの比較をオイル交換が終わるまでに担当営業とした。
1年間で冬タイヤ4本とノーマルタイヤ8本。オイル交換は毎月ペース、エレメントは2回に一度。5万㎞走行毎に前輪ブレーキパッド交換。バッテリー交換は4年の間で1回。車検は1度。ほかにベルト交換などさまざまあるがフリーなので、例えばタイヤは国産で品質のよいものを指定できる。特に冬タイヤはブリジストンの人気商品を指定してる。
それと今回はカーナビをつける。配達先を全て地点登録しておけば、私が動けないことがおきても配達順番を渡しておけばなんとかなると思う。ナビのなかで地点登録数が一番多い(300件)を選んだ。
それでリースの場合、現在より2千円(毎月)アップ。車両を分割で支払った場合は現在より5千円ほど安くなる。けれども購入時の税金などを含めてタイヤにオイルに車検などを考慮すると4年で24万円安くなってもリースのほうが私の走り方では確実によいという結論になった。
タイヤ1本が1万円として、それだけで4年で24万円になる。
湯田温泉(温泉の森)に立ち寄ろうと山口市に向かっていたら自宅から農園に着いた家内が「ドアを治してもらいました」と電話。それならば農園でシャワーが使える。ハンドルを農園に切り替えた。
昼は農園特製天ぷら蕎麦。それに缶ビール。30分ほど大の字昼寝。
それから草刈り。
⏹️あだち美術館 更新しました。
今朝立ち寄った「萩市東浜崎、新堀川の界わい」他の人には日常の風景かもわからないが、私はこういう風情に気持ちが安らぐ。大好きな風景。
映画「沈黙」を理解したいとストーリーを思い返す毎日。金曜日の午後2時からNHK高校講座は日本史と世界史。今週は「キリスト教禁止と鎖国(20分)」録画を2度再生して勉強できた。
「鎖国」という言葉は当時の幕府が使っていた。実態は宣教師を派遣するポルトガルだけは排除して、ほかの外国とは貿易を続けていたことを知った。
島原の乱制圧でキリスト教で統率された人たちの強さを脅威に感じたことから鎖国政策がはじまったことも理解できた。
わからなかったことが理解できるとうれしい。
昨夜のNHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」今朝の萩市配達で「聴き逃しサービス」で聴いた。
番組冒頭「つかみ」というのだろうかそれが毎週面白い。
芸術大学に進学したいと言った息子に父親が賛成を前提に「どうしてか」と理由を聞いたら、読んだ漫画本のことに話が及んだ。
そのことを高橋先生は「夢に感染した」と表現された。車をとめて「夢に感染した」とメモをした。
カー用品Yellow Hatの当時は社長、鍵山秀三郎さんに20数年前はじめてお会いしたとき、わずかな時間で天地が開けたような気持ちになった。あれが「感染」だったと納得した。
その数年後に仕事(人生)までも変える舵をきった。
5時間、配達で走り終えて農園ゴール。
自宅から農園に来た家内との会話。今朝起きてきのう着ていたシャツで寝ていたことに気がついた。風呂を使わず朝をむかえた。
家内は、時計と化粧品を農園に置き忘れて自宅に戻ったと。
午後から川土手と桜並木の草刈り。
3時間できれいに刈ることができた。次は来春。
まだ、農園内の草刈りは残っているが、明日は散髪を済ませて9時半に防府トヨタで愛車オイル交換など。来年1月に新車に替えるのでリースにするかローンにするかの打ち合わせ。
終えて、できれば数ヶ月ぶりに湯田温泉立ち寄り湯を楽しみたい。もしくは農園に戻って草刈り。
きのうてるてる坊主に願かけした美祢市厚保の小学生。昨夜からの雨は6時過ぎにはあがった。楽しいバス旅行、社会見学が叶った。えかったね!
写真。きのう白い彼岸花に黒アゲハチョウがとまったときシャッターを押すことができた。
午前中、3つのミッション。下関市内に集金・小月トヨタでオイル交換・宇部市内の松月院お参り。
水曜日「この仏壇座布団は訳があって新品のままです。どこかお寺で使ってほしいのです」とカバーに収められた立派な品を預かった。
私が尊敬している末次ご住職の松月院にお供えさせていただこうと決めた。
菊川画廊が前の住所(朝日町)時代に夕方から酒を持って話し込みに行くことがあった(菊川さん、いまは禁酒)そのとき末次ご住職も同席されることが何度かあった。
私が出版業と自己紹介すると、松月院で門徒さんたちに配られるご住職執筆の小冊子の印刷製本をたくさんご用命いただくようになった。
穏やかな雰囲気のなかに凛としたお人柄を感じていた。ある時、檀家のお嬢さんがシャンソン歌手。本堂を会場にコンサートを催された。シャンソンはわからないがチケット販売などお手伝いをした。
その当日、本堂畳の上に厚いコンパネ板が張られた場所がステージ。いつものヒールを履いて歌うためだった。祈りの場にハイヒールもご住職はOK。凛とした説法と何でもありの寛大さに感服した。
東京芝増上寺79代、道重上人はこの松月院がご出身。
お昼前に座布団を持参。ご住職は本堂でお勤めだった。庫裏で奥さまに事情を話してお渡し。その方のお名前と住所を聞かれて(あとからお電話)お礼の品を託された。
お昼ご住職にお電話をした。
いつとは申しませんが、仲間とお寺にまいり例えば「ご先祖様」というようなテーマでお話をしていただけませんかと申し上げたら「おやすいことです」と快諾していただいた。
お昼は家内のキーマカレー。缶ビール2本は睡眠薬。
布団を敷いてカーテンもしめて寝る体制に入ったころ、愛犬2頭が激しく吠えるのでやかましい。
宇部市獣害駆除担当と猟師さんが農園の内外を歩きまわった。
農園はイノシシが特別に多く捕れるので、試験的にもっと捕獲できる装置を置きたい。その下見だった。
きのう水曜日の配達コース下関市に火曜日の山口市をくわえた。走行距離と走行時間は多くなり7時にはアリナミンを飲んで寝た。
3時に目が覚めて疲れがとれているかとおもったら身体が重い。
木曜日。配達の軒数と走行距離は週の山場の木曜日。下関市内をぐるぐるまわり菊川の配達をして吉田から美祢市のコース。5時半に農園スタートのときは積んだたまごの重さで足回りが重たい。
6時半。今夜の魚を買いに唐戸魚市場。「びた(新鮮)」のアジをさがしたがなかった。カツオの半身のたたき・大阪湾コイワシをひと山買った。
8時前、鮮魚店(魚仲)は地域のお客さまに農園たまごを儲けなしでたくさんお世話にくださっている。早朝の唐戸魚市場で挨拶をしてお店で「なにを買いましたか」で会話がはじまる。
今朝は済州島のサバがあったが買わなかった。買わなかったのは冷凍状態だった(以前は買った)お店に「刺身はできるか」と聞いたら「〆サバならば」と。
サバは地元の北浦なら刺身でいけると魚仲大将。
木曜日のゴールは美祢市「よしの」
私の母が、勤労女子挺身隊に召集されたのは昭和18年ごろ。床屋で男が働くことを禁じられ(学徒動員・すべての成人に赤紙)その男たちの労働の場をおぎなうための挺身隊。
母は25歳で工場で働いた。その班長は高山という尻をさわる男だった。
前の会社で私の右腕だった高山君のお父さんと判明した。
その母は毎月いくらの給金をもらったいたのかを「よしの」に尋ねた。
赤紙召集された男性は、いまの貨幣価値で換算すると五万円ぐらいではなかろうか。挺身隊の女性はわずかな金額だったと思う。
台湾周辺でのアメリカと中国の軍事緊張も「どうですか」と尋ねたら。最悪は局地戦はあるかもわからないが全面戦争にはならない。
局地戦がもしおきたら、船舶の保険がはね上がりそれが全世界の経済(例えばガソリン)などに大きな影響するから局地戦とはいえあったら困る。
うどん屋店主の見識。
明日は宇部市に社会見学。美祢市の小学生が晴天祈願。
1951年生まれの私と同い年。長府の名物おじさんカバ隊長(本名はある)カバの由来はその風貌かと。
私が何か催すと協力を惜しまない。参加もしてくれる。グリーモールで呉明美さんカヤグムコンサートのとき、Facebookでご案内していた。開会直前に隊長の姿が会場にあらわれた。あのとき嬉しかった。
その隊長。2週間前の水曜日に長府で会った。話題は前日に遭った交通事故。原付バイクの隊長は乗用車にあてられて空中遊泳したらしい。笑い話で終わった。
その夜、自宅で読書していたら呼吸困難におちいった。救急車の要請をしたいが意識もうろうで電話ができない。外に出て隣家に助けを求めて救急車。集中治療室で救命処置をほどこされた。10日の入院を過ごして放免。
水曜日は長府を走る。家内が泊まって早朝からお祝い弁当(昼食・夕食)をつくって持たせてくれた。
隊長の笑顔。禁煙・禁酒に禁欲生活をするらしい。弁当両手に満面の笑顔。
主人の弟が日向。下関市安岡の配達先で奥さま「台風のとき家のそばに大きな川があるから心配します」と。
その川は美々津川ですねと相づちをうったら驚かれた。
前の仕事は市町村議会会議録調製。当時の宮崎県下の全市町村と契約をかわした。JR南宮崎駅近くレマンホテルが定宿。多いときは年間50泊した。ホテル内には居酒屋「ぼくと(日向カボチャに芋がら木刀)」があり宮崎の魚と肉に焼酎を楽しんだ。朝食はレストラン「アルカディア」だった。
延岡市は第一ホテルがあったが、日向市は駅前のラブホテル「ペガサス」の広いベッドだった。日向市で泊まって椎葉村。
美々津は漁村。昔の街並みがのこる私のお気に入りだった。
下関市を走り、美祢市の加奈ちゃん。それからきのう火曜日がお休みだった山口市内。小郡駅周辺の会社に配達。長距離運転の水曜日だった。
農園そばを流れ小野湖にそそぐ厚東川。その対岸、夜はイノシシが昼間はシカの鳴き声がやかましい。
猟をされる方から「食べてみい」とイノシシやシカ肉をもらって食べたのが20年前、農園をはじめた当時。もちろんスッポンやぼたん鍋などは食べていたが、切り分けた肉をもらった手食べたのは初めて。
猟をされる方が処理される丁寧さで味は格段にちがう。放血処理や膀胱にナイフがあたると尿の臭いが肉につく。
おいしい肉を買わせてもらう猟師さんは何軒か決めている。
もともと野生動物は人にとって野草や魚と同じように生きていく栄養だった。ところが野生動物だけは食卓から遠ざけられた。理由は衛生面などかも知れない。加熱すれば内臓でも美味しく食べられる。
猟銃を使った事件のせいで猟師さんは銃ではなくワナ(オリ・ワイヤー)を使う指導。けれどもワナにかかった動物を銃を使わずにしとめる危険はお役人様にはわからない。
猟期(冬場を前に脂身たっぷり)がきたら最高のイノシシ肉を買わせてもらう。手にはいったらブログでご案内します。飲みの持参でおいでませ。農園式宴会を何度か催します。肉を買うことで猟師さんを応援です。ブログでご案内します。
今朝の椹野川と配達をおえて農園に戻る近道の林道で見つけられたお地蔵様。
スマホのカメラ機能にはおよばないカメラを腰につけて撮っている。
敬老の日。今年69歳をむかえるから私も立派に老人ゾーン。何かしら特別のこともなく毎週月曜日の仕事にむかうため今朝は4時起き。土曜日・日曜日の草刈り疲れは一晩で完全リセットできた。
大島「野の畑みやた農園」から毎月の野菜など昨日届いた。今月のテーマ「たまにはイタリアーンもいいよね♪」大島のオイルサーデンがひと瓶入り、薫りニンニク・青唐辛子・ナスにピーマンなど・ライムにフレッシュハーブいろいろ。おまけは原木シイタケ。
過酷な炎天下。毎日5リットルの水を畑で飲みながら宮田夫妻が育てられた本物野菜。買い求めることでみやた農園は継続できる。
立場はちがって、しんあい農園のたまごをお求めくださる多くのみなさんのおかげで継続できている。
その感謝を「島の定期便」の購入に込めている。
土曜日の午前、NHKラジオ「真打ち登場」で柳家さん喬「幾代餅」を聴いた。
吉原トップスターに惚れ込んだ町職人が、花魁と一度逢いたいと一年本気で働いて金を貯めた。醤油問屋の息子と偽り着物など借り物で念願果たした。
けれども嘘をつかないことが自慢の職人は白状した「来年まで働いた金で逢いに来るときは町職人として逢ってはくれないか」と。
花魁の幾代は「来年3月、年季があける。そのとき夫婦になってはくれないか」と逆惚れ。
はれて夫婦になり餅屋家業で繁盛したというめでたしの一説。
いかにも日本人好み。聞き逃しサービスで楽しんだ。
YouTuber 柳家さん喬・幾代餅 検索で楽しめます。
配達業ではなく接客業と思っている。
祝日は日ごろ会うことはないお客さま家族と会話をかわす楽しみがある。
前歯が抜けたお嬢ちゃんが玄関に走ってきた「1年生かね」と言うとうなずいた。
黄色の彼岸花を自慢されたお宅で撮った。
遠藤周作「沈黙」がBSシネマで放送されたので録画した。ご覧になりたい方はご連絡ください。
数年前、この作品は観ておこうと映画館に行った。早い時期にテレビ放映になった。
映画館でよく理解ができなかったことが2度観るとわかる。
キリシタン弾圧下の長崎。オランダ人宣教師を殺すか改宗(仏教)させれば人々のキリスト教は絶えると幕府は考えた。
賞金で密告推奨。踏み絵などで教徒をあぶり出した。火責めや水責め、逆さ吊りの現場は公開され宣教師たちも密かに遠くからそれを見て神に助けを乞うが奇跡はあらわれず凄惨に殺されていった。
その現場を繰り返し見て、自分たち宣教師が布教にきたことによりこれほどの不幸をおこしている。という心境にまでなる。
約3時間の録画を観終えて文字が読めないエンドロールまでみた。
ギタリスト村治佳織が、入江ごとに数多く点在する五島の教会を訪ねる番組があった。
その解説で、江戸時代後半、大浦天主堂の建築がおわったころマリア様を拝ませてほしいと人々が来るようになった。日本でキリスト教は絶えたとバチカンでは考えられていた。
五島の島々に信仰のともし火をいだいて隠れ住んだ人々。書き物にすればキリシタンの証拠になるので祈りの詞は口伝で伝承。観音像がマリア様。山のなかに祈りの場所もたくさん残っている。
信仰の力。その力で幸せになる。反対に戦争にもなる。
さわやかな朝をむかえた。6時半からお昼まで農園内の草刈りをした(昨日は隣接地の耕作放棄地)。9時ごろ屋根に布団を干した。
午後からも外での仕事はあったが日曜日。人並みに少しは休日を楽しもうとシャワーで汗をながしてお昼はロング缶。大の字で昼寝。
「あだち美術館」3枚更新しました。
昨年のきょうの朝。犬と散歩をしていたときの空の雲が凄かった。犬を放ったらかしにして全速力で部屋まで戻り夢中で撮った3枚。
もうこのような雲は見られないかもわからない。
少し前まで暑くて寝苦しい毎日だったが、暑いどころか窓を閉めきっていても、厚めの毛布でもまるくなって寝ている。
萩市にくだる雲雀峠、冬場は凍結の難所の気温は11度まで下がっていた。
土曜日の楽しみは、前夜のラジオ番組「飛ぶ教室」聞き逃しサービスアプリでボリュームをあげて再生しながら高橋源一郎先生から学んでいる。
学んでいるということに走りながら気がついた。ということは配達の愛車運転席は私にとって学びの教室。
前の仕事のときは九州全県下の市町村の会議録調製で走っていた。その20年間もカーラジオが相棒だった。
私の学びは雑多な耳学問。笑ったり泣いたり考えたりの車内が教室。
早朝から、萩市内を走り長門市から美祢市。お昼前に農園ゴールイン。
缶ビールで昼食のあと少しの昼寝で体力満タン充電。
4時間の草刈り。明日は早朝から草刈り。この草刈りは今年の千秋楽になる。
5年前、6月15日に96歳でお国替えした母。
写真は85歳を過ぎた元気なころ農園に泊まりにきた。目的は「私の葬式を決めておこう」だった。
出雲で9人姉弟の長女。一人だけ健在だった次女(兵庫県・いまは故人)「鶴子も高齢だから宇部まで来ることはない。一段落して報せてくれ。葬儀は金光教太秦教会の先生(長女嫁ぎ先)に来てもらってほしい。家族だけでよい・棺や祭壇は安いものでよい」など話して、積み立てた葬儀社の証書も持参していた。この写真を遺影で使った。
その後、亡くなるまで7年ほど施設と病院生活。自宅に戻れなかった。
私を宇部で出産した母の年齢は33歳。私を認知した父親は戸籍にあるが顔をみたことはない。母子家庭で育てあげる強い決心があった。
その6年前、母が27歳の昭和20年に宇部は焼夷弾で焼きつくされた。港町の保健所ちかくに家はあったが焼失。炎のなかを生き延びた。
どこに身を寄せたのか、何を食べて生きていたのか。聞いたら「もう忘れた」とシラを切る。父親のこと同様に語ることはなかった。
小学校就学前、夜中に起こされ「死のう」と連れ出された。常盤湖の生ぬるい水のなかに手をひかれた。増水していたのか足に草がまとわりついた記憶はある。
母は私を育てるために30数年、山大工学部の用務員をした。草刈りや便所掃除を黙々とする姿を、講演に来られた湯川秀樹博士に学長が話をしたら「呼んで来なさい」と母は学長室に呼ばれて、博士から激励の色紙を頂戴している。母の部屋を調べたら出てくるかもわからない。
金光教では5年祭を大切にしている。納骨も京都。お参りしたかったが遥拝させていただきますとお祭りはお仕えいただいた。
遺品のなかから日記や俳句がたくさん出てきた。
その一句
振り向いて 無言の挨拶 彼岸花
⏹️「あだち美術館」に母にまつわる3枚をくわえました。
午前中、山口市内のスポット配達。済ませて宇部菊川画廊に足をのばした。
約1時間の滞在。芸術と信仰を中心に勉強させていただいた。
時間を見つけて「美祢市観光」と「萩市観光」ご案内役を引き受けた。
私があまり休まず働いていると思っている人から言われた。蛇口にコンドームをつけて水を入れて膨らます。パンパンにして水を出したら次も使える。ところが針の穴のような傷がついたら水を満たせない。
身体をいたわり小さな傷をつけないために休養は大切ですよ。
藤中隊長が緊急入院された。その日のお昼に隊長とあった。いつもと変わらない様子。ふたりで大風呂敷をひろげた。カバ隊長が病室から「病は突然でした。お気をつけください」と。
ずいぶんの疲労感で昨日は終わった。何人かの方に届けた昨夜のメールの誤字脱字。文脈がよくわからない内容。それを今朝見てがく然とした。
気を取り直し「よし!」と5時半に農園スタート。助手席や足元にも荷台に積みきれないたまごを満載。雨具一式も空いたスペースにねじ込んだ。
清末「レストラン卯」は6時にスタッフ総出のアクセル全開(後日ホーム画面でご紹介)仕事に誇りと責任それと働く喜びを受けとめ、それが私の働く糧になった。
私の配達はさまざまな物を届けている。スペシャルオリンピックス関係のシャツ。録画のDVD。萬代さんスダチ。村上棟梁宅の犬にあたえるパン。旅と料理の雑誌などこれはと思ったら飲食店。お届け先に役立ちそうな新聞切り抜きなど、それを手渡ししながら走る。
大丸百貨店で開催の浪花「棒寿司」をタクシーで買いに行きたいけれど売り切れだったら。とご心配の方には「取り置きしてください」とお店に電話をされたらどうですか。
浪花に雲丹を食べに行きたいが、その一番よい時期を聞いてください。
走りながらさまざまなメールが届く。それに返信しながら本業の配達も済ませる。
3時ごろに美祢市。加奈ちゃんのお店にたくさんのお届け。山口市、火曜日のお届けエステの中野さんと加奈ちゃんのお店でばったり。木曜日は2階でエステをされている。明日の金曜日にお届けしたい方にレーズンパンを買った(昨夜、取り置き予約)
その一本は、明日の午前中に心のリフレッシュに行きたい菊川画廊の愛子さんプレゼント。
身体の疲れは睡眠時間でなんとかなる。元気を取り戻すには菊川画廊での会話が私には一番。
さぁ、今夜は唐戸魚市場の魚で晩酌。
写真は、今朝6時半の海峡。
木曜日、下関の配達が増えた。そのオーバー分を水曜日にお届けするようになって5年ぐらい。配達軒数も走行距離も多くなった。
3時に起きて5時半農園スタート。今朝は霧雨のなか真っ暗な道をヘッドライトを点けて犬と歩いた。対岸の山ではイノシシが大騒ぎしていた。
王喜からお届けははじまる。8時ぐらいまでは届ける置き場を決めて集金もそこでしている。お客さまと顔をあわせることはない。長府を済ませて住吉神社に向かうころ8時になる。新下関駅界隈を済ませた安岡。そのあとは綾羅木。山の田の配達を済ませてスペシャルオリンピックス下関の拠点は10時。バーバラ(婆)たちが集い運営について賑やか。そのなかに割って入り、私がみなさんと交わしておきたいスペシャルエッグの打ち合わせを一方的に大きな声で伝える。
再び長府に向かうときは逢坂をくだる。先週から松村御大が東亜大学職員さんにスペシャルエッグをひろめてくださりキャンパスにも立ち寄る。
清末に戻り、王司の神田さん。それから美祢市まで走り加奈ちゃんのお店(水曜日・木曜日・土曜日にたくさんお届け)。絵手紙の萬代さんからスダチをたくさん託され、そのうち100個を届けたら写真の変顔❕
スダチがあればつくりたかったメニューがあったらしい。⏹️萬代さん、まだスダチがあれば加奈ちゃんにサプライズしてください。喜びますよ。
明日の給油を済ませて農園ゴールイン。
18日に金光教太秦教会でお仕えいただく母の5年祭のお供え物を小郡のヤマト便まで運んだ。
しっかり働いた水曜日が終わった。
火曜日の朝は6時半に配達スタート。一週間のなかで一番ゆっくりできる朝。
先月、9頭ものイノシシが捕獲された農園。しばらくイノシシの痕跡がなかったが数日前から新手が徘徊して農園内でミミズを補食しはじめた。耕運機でも手強い地面を鼻で掘り返している。猟師さんもそのことは察知しておられて箱ワナ2ヶ所に餌が山盛り。ゆっくり散歩の愛犬がイノシシの足跡で興奮。
松岡さん(山口市掃除に学ぶ会を立ち上げられた・今は岡本さんが代表)のお宅に配達は8時前。
見覚えのある文庫本を手に私を待っておられた「アマゾンで買いました。藤原ていさんのもう一冊も」と。松岡さんが「流れる星」を読んでみたいと思われたのは、私のFacebook投稿かブログを読まれてのことだと思う。
10時前、山口市内の新保さんお届けでも「流れる星を読みました」と話題になった。
新保さん、矢野さんを7月4日「美祢市観光」にご招待した。スーパーマーケットの駐車場で合流。私の車で向かった最初は神功皇后神社。次はJR厚保駅併設の地域交流ステーション。ここで「泥あげ」という田植えがすんだ地域の女性たち、今でいえば「女子会」が催されており面々のなかに絵手紙の萬代さんがおられた。
次は、白虎隊ゆかりの場所をご案内。とっておきは美祢炭鉱遺構(麦川)の「キーストン」は海軍御用達の無煙炭採掘跡。日本海軍の桜に錨マークが鎮座している。加奈ちゃんのパンを買い込んで「よしの」のうどんで終わった。
その道中、車内での会話で矢野さんが「富士山八号目の山小屋で働いていた」とぽつりと。
私の富士山は新田次郎著「芙蓉の人」新田次郎はペンネームで本名は藤原、奥さまは藤原ていと言うと矢野さん驚かれた。後日のお便り(封書)で「流れる星は生きている(藤原てい著)」をご紹介くださった。
新田次郎はたくさん読んだが藤原ていは読んでいなかった。それをブログに書いたら、庄原市の酒飲み仲間・お掃除仲間・神様仲間の林さんから「流れる星」が届いた。
そのページをめくる前日の木曜日。下関市内日のおばあちゃんが満州引き揚げと知っていたから話題にした「私は新京からの引き揚げです」と。
翌日の金曜日に「流れる星」を読み始めたらそこは新京からはじまった(おばあちゃんは、大事なラジオ放送があると玉音放送を新京駅で聴いていた)。
Facebookとブログで「流れる星」を話題にした。それを松岡さんがキャッチしてくださりアマゾンで求められた。
出版の仕事をしていた。
本は「紙の墓」と思っている。石の墓で手をあわせることは故人が喜んでくれると思う。故人が足跡を活字に遺していたらいつでも故人の息づかいにあうことができる。
96歳でお国替えした母の5年祭を金光教太秦教会で今週お仕えいただく。
その母が、大学ノート数冊に遺した俳句。遺品の整理で見つかった。その文字からなつかしい母がよみがえる。
4年で愛車の走行距離は24万㎞以上になる。
広範囲に走る楽しみはお客さまとの会話、景色を眺める、ラジオを聴ける。この三点セット。
月曜日の配達コースは岡本拓也さんからはじまり、美祢市から厚狭、小野田市などをけっこう走り回る。
その道中で秋を感じる風景を撮った。とくに早朝の朝霧と空に雲が描いた作品はよかった。
10号台風一過から豪雨。それがおわって秋が深まった。
いま(5時)クーラー使わずとても涼しい。夜中は窓を締め切り厚めの毛布がいる。
道路沿いの草刈りが各地ではじまった。ということは、行政が予算を使って草刈りをする時期。これから刈れば雑草は春まで大丈夫ということ。
農園はもう少し待って草刈千秋楽をむかえる。春まで草刈から解放される。
Facebookで鍵山先生の言葉を見つけた。
私も、いつの頃からか。鍵山先生とご縁がうまれ、会社を辞めて(経済優先のそれまでから)大きな変化があった。
数字が突きつけられる会社経営。業績があがるほどストレスもあがった。散髪に行ったら円形脱毛を理髪師から何度も「お疲れですね」と同情された。とにかく利益をあげなければならない。周囲の人が困っておられても、それを受けとるアンテナがなかった。つまり自分がよければよい世界に生きていた。
鍵山先生が私を「あだち君」と呼ばれたことはない「さん」そのご縁のなかで上下の関係で生きることではない。
たびたび「農園の生活は順調ですか」と励ましていただいた。
そのなかで周囲の人が困っていることを知ったら、私ができる精一杯のことをしたいと思うようになった。
今朝は農園からほど近い小野地域の横坂神社を会場にお掃除の会が催された。
宮司が境内地の青銅の牛を「この牛は、戦時下の供出命令のとき地域で隠した」と言われた。そのことが発覚したら非国民としてとがめを受けること。
つまり、この牛を奉納した理由は地域にとって命をかけてもよいほどの意味があったにちがいない。
午後から山口市内に買い物。
母の5年祭が金光教太秦教会の霊祭にあわせて仕えられる。けれどもこの時期に京都往復にはためらいがあり(私の考えでは双方に)参拝は遥拝にした。そのお供え物を家内と買いに行った。青果は水曜日に、きょうは乾物などを選らんだ。
⏹️あだち美術館
私のカメラ作品を3点更新しました。
大雨洪水警報で朝をむかえた。
雨雲レーダーは農園地域と早朝に向かう萩市や長門市は猛烈な降水を示していた。
萩市に着いた6時半。車からおりることをためらうぐらいの豪雨にたたかれた。
お昼前に農園ゴール。運転疲れで強い睡魔がきた。横になったら15分熟睡できた。
重枝さんにタブレット操作など疑問点を教えてくださいとお願いしていた。1時から鍵山記念館で教えていただいた。スマホの操作や設定を教えてほしいと松岡さん、新保さんが合流した。
重枝さん講座のとき岡本さんが来られた。
緊急入院された藤中さん最新情報を手にされていた。
病名がわかり治療がはじまり救命室から出た。まだ面会できない。2週間ほどで退院とのこと。
ひと安心。
⏹️ご案内
14日(月曜日)午後1時 NHKBSシネマは遠藤周作「沈黙」
私は以前に本を買ったが挫折。映画館に足を運んだ。タイトルの「沈黙」を作者がつけた意図がわたしなりに理解できた。
「あだち美術館」を日曜日に更新宣言していたことを思い出した。台風対策や渇水対策で慌ただしく忘れていた。
明日の夕方までに更新。
夜中2時すぎ、屋根をたたく雨音で目が覚めた。
炎天下、鶏舎の屋根に散水。桜並木に散水。井戸水の水位をあげるため川の水を揚げ続けた。雑草までもが雨のない灼熱続きで茶色く変色した。
高齢のせいかもわからないが、これほど暑い夏場を経験したのは人生はじめて。
昼まで散髪と血圧検診。
血圧計で朝測って120・70。お昼に測って130・75。検診で女医さんが測ると150・90。私の身体は正直者。
待合室で「流れる星は生きている」を開いた。38度線を子供3人と徒歩で越えアメリカ軍のトラックに救われた。難民収容キャンプで食料と医療を受けることができた。
親子の足の裏には無数の石ころが食い込んでおり手術で摘出。その足で過酷な山越えをいくつも重ねた。
白骨街道と呼ばれるインパール作戦撤退。飢餓と風土病で次々と兵士たちは動けなくなり手榴弾自決で苦しまずに死ぬ道を選んだ人は多かったと聞いている。
満州から子供3人と釜山港で、途中で生きていることより死んだほうが楽という記述はどこにもなかった。歯を食いしばって、子供を叱るときは男言葉になって歩かせた。
郷里の信州諏訪にもどりたい、新京で別れた夫と再会したい。その強い精神力が道中で物乞いまでもをさせた。
釜山まで着いたところで診察室に呼ばれた。
診察室を出て、支払いを済ませ6週間分の薬を受け取って待合室の椅子に座った。静かな場所で読書する私が、待合室の話し声やテレビの音声のなかでページをめくった。
釜山から博多港。そして列車に揺られて諏訪駅に降り立ち、そこで一年と数ヶ月ぶりに鏡に映った自分の姿に驚いた。
ラジオ番組「私の本棚」で新田次郎「雪のチングルマ」の朗読を聴いて新田次郎の山岳小説を読み始めた。その頂点は「芙蓉の人」だった。
プロジェクトXの初回は富士山山頂にレーダードームを建設する名もなき男たちのドラマだった。その陣頭指揮は気象庁の藤原。新京の観測勤務をしていた。退官後に小説家の新田次郎。その妻が「流れる星は生きている」の藤原てい。
待合室で読後の余韻にひたった。
長府の藤中さん情報。
きのう救急車で搬送され救命治療を受けている。水曜日に藤中さんと会話をかわした。交通事故に遭われて保険会社の人が来ていた「どうもない」と廃車になった原付バイクを「新車の中古車にしなければ」とわからない日本語だった。そのあと救急車。
私と同輩。お互いに昔話はしない「今をどう生きているか」を冗談まじりで真剣に話ができる。
近しい人に近況を尋ねたら。事故のことではなく肺に水がたまっており、面会はできないとのことを知った。
視界がよくない海峡も風情がある。
今朝6時半の唐戸魚市場界わい。
ユメカサゴかノドグロ、なければアジか大阪湾のコイワシを探したがハズレた。
アンコウひと山が目にとまった。兄ちゃんが「唐揚げ最高!」と笑顔で寄ってきたので買った。別の店に大きなカマスがあった「塩焼きですね」と誘われて買った。
家内に買い物を伝えた。最近スマホを使いはじめている(電話はガラ携のまま)アンコウとカマス料理を検索するだろう。
流れる星は生きている(藤原てい著)に私は導かれている。
藤原家族が生活した新京。その新京から引き揚げてこられたたまごのお客さま。
きょうは30分、当時のことを聞かせてもらえた。
お父さんの仕事は農業指導だった。夫婦で赴任先の朝鮮で昭和10年に長女で生をうけた。
その後、新京に移動を命じられ東拓なんとかという会社に在籍した。兄弟が三人になった。
新京駅に家族で行ったのは、大事なラジオ放送があるということだった。その放送の意味は小学2年生だった私にはわからなかったが玉音放送。
なにも不足のない生活が終わった。新京駅から屋根のない貨物列車に乗せられ2日大陸を走った。朝鮮の「ころ」なんとかという港。そこから博多港。
その貨物に乗れるまでは1年かかった。収入はないので家財を売りながら飢えをしのんだ。赤い穀物だったのでコーリャンと思う。それを蒸して家族5人がわけあって生きることができた。
けれども小林千登勢(女優)さんや五木寛之さんの引き揚げに比べたら、私の家族はよかったと思いますよと。
五木寛之さんの壮絶な引き揚げ体験は県セミナーパークで拝聴した。
小林千登勢さんは、星をよみながら徒歩で38度線を越えられたと教えてもらった。
検索したら著書「お星さまのレール」を知った。
藤原ていさんも小林千登勢さん「星」だった。
漫画家「ちばてつや」さんは、満州で敗戦を幼少でむかえた。家族が地域の人のお世話をしていたので危害がおよばないように懇意な中国人がアンネフランクリンのように屋根裏部屋を提供してくれた。
そこで退屈をもて余す弟に漫画を描いていた。
それを話したら「足立さんの引き揚げはなんですか」と直球で問われた。それにはこたえる言葉が見つからなかった。
シングルマザーの母が中国語が堪能だった。その過去を聞いても「忘れた」とシラをきって終えた96年の人生も波乱万丈だったのかもわからない。
青島の海がきれいだった、大連の砂糖はよかったとは聞いた。
水曜日、小月で7時過ぎるとスクールゾーンになるお宅のお届けがある。5時半に農園をスタートしなければならない。
3時前に起きて配達の準備や朝食準備に後始末。犬の世話など慌ただしい。
狭い部屋だから掃除機をかける時間はわずか。けれどもタヌキが出てきた「毎日掃除機をかけている。汚れてはいないからせんでもええ」と耳もとで。部屋を誰が点検するわけでもないからタヌキの言うようにパスと思った。
例えば履き物を揃える。挨拶をするという簡単なことをおろそかにして大きな志しを掲げても成就しないと教わった。タヌキを追い返して掃除機をかけた。
愛煙家だった10数年前、たいがい二種類の銘柄を持ってその場の気分で吸っていた。
読書も何冊かを同時進行。読み終えてもう一度と読み返す本は多い。
藤野先生が午前中、農園を訪れて「街場の親子論」を差し入れてくださった。
高橋源一郎先生「飛ぶ教室」秘密の本棚で読み解かれた一冊。とくにエピローグ「思い出のおばあちゃん」は、臨終の母に、母が私を育てることの人生だったが、それにむくいる別れをしていなかった後悔がある。
おばあちゃんの最後、孫の内田るんさんは、おばあちゃんの母になって声をかけた「おばあちゃん」「ママ」「おふくろ」「内田さん」ではなく「まさこ」と。
読みたかった本を頂戴した。
来週18日、金光教太秦教会で秋の霊祭が仕えられ母の5年祭も仕えられる。
参拝を考えたあげく遥拝に決めた。
この夏は草刈りなど炎天下作業に疲れが治らず尾をひいていた。あとから思えば熱中症(汗がとまらない)を何度か経験した。力がはいらない。
農園生活20年、高血圧で病院通いはしているほかは、一度、庄原の宴会で指を怪我して救急車。それだけの健康体。
この疲れが治らなければ診察に行かなくてはと思っていたが、夜が涼しくなり快眠。
なんとなく元気を復活してきた。
以前、台風一過は爽やかな風だった。きょうの山口市内はサウナ風呂のような蒸し暑さ。
気象庁が10号特別警戒情報に踏みきらなかった理由は、9号が東シナ海を通過して海水温度が下がったことと報じている。
台風前日の6日。7日の前倒しで配達に行った小野田市のご年配が「直前に通過した9号が海水の温度を下げている」とぽつりと語られた。衛星や巨大コンピューターを使わないでも、人生経験からそれを言い当てた。
一の坂沿いの配達先でブーゲンビリアが暑さを喜んで咲いていた。
藤原てい「流れる星は生きている」をゆっくり読みすすんでいる。
オーストラリア近く、アメリカとの往来を断つ目的で進攻したポートモレスビー。日本軍は熱帯密林で過酷な戦闘を強いられた。生還した兵士は「みんな鬼になりました」と。食べるものがない。最後は人肉まで手をつけました。
大岡昇平「野火」でもそれが題材になっている。
その程度の差はあるが、神戸の避難所に着いた19日。夜は自衛隊が持ち込んだ赤飯缶詰とチクワ。それを1000人以上の人に配ることからはじまった。缶詰めやチクワは足りなかった。
前日まで同じ地域で笑顔で暮らしていた人たち避難初日だったのでわけあえた。それが長期になると給水に来た自衛隊の水が切れたとき怒鳴る。漏電で出火が相次いで起きたとき力尽きてホースを担いで歩く消防士に罵声を浴びせる。
「流れる星」平壌駅までたどりいたときの引き揚げ日本人の過酷さを活字から教えられた。
食べるものがある。寝る場所がある。それを失ったとき人は人ではなくなる。
まだ台風の疲れがある。今夜も早々に就寝。
土曜日、長門市野波瀬港で漁船の台風対策に余念がない。底引き網船は僚船どおし漁網で台風にスクラムを組んでいた。極楽寺の9月伝道掲示板。
毎年のこと。台風シーズンは農園も心配事がたくさん発生する。
一番は風。周囲を山に囲まれている地形ではあるが、東側は川の両岸が山。つまり川に沿って山あいから絞りこまれた風が到達するのは農園。
15年ぐらい前、この絞りこまれた突風が唸りをあげて農園を襲った。鶏舎の屋根の全部が空に舞い上がった。しかも豪雨。気持ちが折れそうになるほどの試練だった。
ミツヤ工業の山本社長に「人手がほしい」と頼み、なんでもできる4人を派遣してもらい、倒木の撤去などやってもらった。その最中に電話、お客さまで難病の子どもさんと暮らしている(主人は長距離ドライバー)お母さんから「車の出入りができません。大きな木が倒れました。娘が万一のとき車が出せません」と頼まれた。チェンソー持って県道は倒木で通れないので道をさがしながら現場に行って車が往来できるようにだけはした。
山口市内の団地の断水が長期間。この団地に3軒のお客さまがあった。田中の奥さま(子どもさん二人)に500㍑に満水のタンクをトラックに積んで置いておきましょうと言うと、しばらく考えられて「うちだけ助かっても」と。
ならばと20㍑のポリタンクを3個買って、弁天池の水を3軒にお届けした。
厚狭が川の氾濫のときは長期間の停電。妙徳寺は月曜日のお届け。災害時は地域の拠点になっているが電気がない。月曜日の配達でそれがわかったので夕方、農園の発電機とガソリン20㍑。延長コードも持ち込んだ。
台風が間近になるときから情報はテレビでもネットでも見ないことにしている。
できる万全のことを済ませて、神様(母や西君の御霊も)に大難なら小難に、小難なら無難にとかしわ手に祈る。
いつもと同じように寝酒で横になる。
2時ごろ、まくら元の愛犬が落ち着かないので目が覚めた。
正志が作業場(階下)で寝ている「明朝の早い時間に農園に来ます」と言った。どれだけ遅くなっても農園で泊まれと命令した。全部の仕事を済ませて自宅にもどり、それから夜遅く農園に着いたと家内。
作業場に用意した布団を使わず寝たようだった。
ニュースが1日前から「経験したことがないような」という表現は全くあたっていない。たしかに風は強かった。犬が怯えた。けれども19号のときは自宅の外壁に近くの屋根から飛散した瓦が突き刺さり、床波港の漁船が住宅地にあがった。私の釣り船も被害甚大で船はやめた。
あれに比べたら、鶏舎の屋根が吹き飛んだときに比べたら、農園を吹き荒れた台風は経験した風より小さいと思った。
3時に停電。正志が発電機をまわしてくれた電力は水まわりを動かす。トイレや台所の水は使える。灯りは準備はしてきたが夜明けまでは乾電池のカンテラでなんとかなった。
日曜日(昨日)、きょうの配達を済ませた。一件だけ遠距離で職場のお届けはお休みなのでお届けしようがない。メールで「木曜日、ご希望の数をお届けできます」「いつもの16個を木曜日に待っています」と返信。
9時、少し風がおさまったので往復2時間。職場はお休みだったが裏口から入りお届けした。
それをメールで連絡した。即座にお礼のお返事をいただいた。
9号から続いての10号。日曜日の配達もやったので曜日感覚がない。
今夜はよく寝て、火曜日の朝をむかえたい。
今朝、藤野先生からご紹介いただいたEテレ5時「心の時代」を録画しながら冒頭の少しだけを観て仕事をはじめた。その冒頭が印象深かった。
歌人・細胞生物学者の永田和宏(73歳)の聴き手は釈徹宗先生。
永田先生は11年前奥さまを亡くされた。そのことを、僕が輝いている姿を見てくれる。それを失った…と語られた。
土曜日の楽しみは、早朝から萩市に向かうとき「聴き逃し」で再生する前夜の「飛ぶ教室」
高橋源一郎先生が選んだ秘密の本棚は鷲田清一(わしだきよかず)著「待つということ」
その冒頭も本当によかった。
⏹️半世紀前、19歳の青年がデモで捕まえられて拘置所に7ヶ月拘置された(50+19歳は、私と同年輩の先生のこととわかった)毎週、片道3時間かけて3~4回会いに来てくれた彼女。刑務官の立ち会いでわずかな時間の会話。独りの時間は「今度は何を話そうか」と、そればかりを考えていた。けれども会話が思うようにならずときには面会が苦痛に思ったこともあった。
あるとき、突然に釈放された。
最初にしたことは彼女に電話。その受話器の向こうで「もう待つことに疲れました」と。
青年はその夜、友人の部屋で待っている人のいない時間深い眠りにおちることができた。
台風対策でいつもとちがう日曜日。
明日は「台風で走れませんから」と配達をとめることは簡単。できることの最善を尽くしたいと思っているので、日曜日の予定の数を調整しながら月曜日の配達を準備してくれる。2度、農園に戻って準備が整うのを待った。大幅に走行距離はのびた、配達時間も多くなった。
けれども「明日の配達は無理だろう」と思われていた多くのお客さまから喜んでいただいた。
農園の台風対策。できることはすべてやった。
長年お世話になっている宇部市内の松原酒店が公式ホームページをつくられましたのでご案内します。
公式HP:https://matsubarasaketen.com
Facebook:https://facebook.com/matsubarasaketen
Twitter:https://twitter.com/matsubarasake
Instagram:https://instagram.com/matsubarasaketen
#山口県#宇部市#松原酒店
全国のお酒を店主が選りすぐり、ずらりと並べています。県内・県外発送も快く応じてくださいます。
私の関係者のみなさまには私が配達できます。
⏹️流れる星は生きている
「お母さん、僕のをお母さんに上げるよ、お母さんお腹がすいておっぱいがでないでしょう」
今までじっと見ていた正広が
本気で私にそういってくれるのをその眼ではっきり受けとると、胸をついて出る悲しさにわっと声をあげて泣き伏してしまった。
七歳になったばかりのこの子が自分が餓えていながらも母の身を案じてくれるせつなさと嬉しさに私は声をたてて泣いた。
夫、藤原寛人(新田次郎)と満州新京駅で別れ、子ども3人を連れての引き揚げ(難民)その道中のひとこまを抜粋した。
この正広少年、小さなイモに歯をたてたとき母の身を案じた。この兄が「国家の品格」「日本人の誇り」著者、数学者の藤原正彦だとメールで教えていただいた。
過酷な逃避行のなか、人格者のご両親から人として何が大切かということを兄弟3人教わったのだろう。
新田次郎「芙蓉の人」は夫婦愛のストーリーではない。私財を投じて富士山頂で冬季観測をおこない。その観測記録から国が富士山頂気象観測事業に舵をきった。個人が国を動かすことができた。
台風接近。できるだけ、精一杯の対策をやって無事に通過してくれることを願うしかない。
さきほどニュースが鹿児島県の離島島民全員が自衛隊の支援を受けて鹿児島市内に到着したと報じた。
畑や家畜やペットは避難できない。島民のみなさんの自宅など無事であることを祈った。
月曜日の日中が台風最接近。月曜日の配達はすべて明日終わらせることにした。
農園は停電が長引く。発電機と燃料の点検。こまごました物はすべて軽トラの荷台に積み込んだ。
明日は電気が通じているうちに炊飯器。浴槽は満水。
きょう雨予報。雨を待っていたけれど降らなかった。
観光地ではない。萩市玉江を堀内から眺めた景色は、私の萩自慢。萩八景遊覧船にゆられての玉江もよい。
写真のお寺(観音院)の下に細い道が右に続いている。三見を経て飯井を通過して長門三隅に通じる海岸線の狭い道。
玉江から三見まで、右手に雄大な日本海を望むことができる。その海岸から異様な音がボリュームたっぷりで轟いてきた。
人の頭ほどの大きさの石が海岸線全体に広がり、それを波が動かして石の大合唱だった。
2年前、長門三隅駅まで6時間。大きな山を三つも越えて歩いた。
台風の前にやっておきたいことを2時ごろから考えた。
以前、鶏舎の屋根がすべて舞い上がった台風も経験した。農園から東方向に山あいがあり、そのあいだを吹き抜けてくる風は強烈になる。
その東側に面しているガラスサッシ2ヶ所にコンパネだけは張っておこうと決めた。
15日投薬、犬たちの薬2種類を阿知須の病院に買いにいくとき、阿知須の大型ホームセンターに立ち寄った。
8時半。駐車場にたくさんの車が並んでいた。台風対策で養生テープや乾電池。発電機に水タンクなど様々な品物を買い求めに来ておられた。
コンパネ売り場も賑わっていた。予定の買い物を軽トラに積み込んで動物病院。
農園に10時過ぎに戻った。とにかく眠い。本を開いても、ビデオの録画を見ても眠くてしかたがない。缶ビールで眠りにおちた。
午後から二枚のコンパネで窓の補強。
月曜日の午前が台風最接近の予報。その午前の配達だけでも日曜日にできないかと思っている。
きのう内日の米農家さんに配達。ウンカの大発生で収穫は全くできない。米農家がお米を買いに行くことになると老夫婦が肩を落とされた。
今朝6時前に霧雨。この機会に焼却ゴミを一気に燃やした。それに驚いたのか対岸の山からイノシシの鳴き声があがった「やかましい!」と大声で一喝したらおさまった。
ご縁のなかでめぐりあうことができた 追悼藤原ていさん「流れる星は生きている」ゆっくり読みすすんでいる。
満州新京から子どもをつれての引き揚げ(難民)食料がないなかで7歳のわが子が「お乳が出んでしょう」と食べかけの歯形がついたイモを差し出した場面はリアルだった。飢えて亡くなる逃避行のなかでのイモには涙が溢れた。
今朝6時半の唐戸魚市場付近のようす。
鮮魚が買えるとは思わなかったが場内をぐるりと歩いた。近海の鮮魚がないのは台風9号接近と次の10号対策で漁船が係留されている。しばらく鮮魚の天然ものは期待できないと馴染みのお店で言われた。
最近、早朝の長府で度々見かけることがある。
4リットル(焼酎ボトル)とビニール袋を提げているご年配の男性。散歩の犬が足をあげた電柱や鉄柱に水をかけ、始末せずに放置したウンチを拾われている。
愛犬家のマナーを貼り紙や看板で、ときには威圧感たっぷりの表現でアピールする人。
反対に、黙ってぬぐっておられる人もある。
その姿から背筋をただされる人があるかもわからない。
気持ちが落ち着かない場面。それに4リットルと小さいビニール袋。自分ができること、できる範囲を黙ってやり続ける人に感動している。
きのう、9号の荒天で救難信号を発した東シナ海の船舶。海上保安庁から船とヘリコプターが出動した。まさに命をかけての救助出動。私なら「きょうは有給休暇にしてください」と言うだろう。そのなかを夜間の人命救助に向かった保安官たちに心からの敬意しかない。
今朝5時半に農園スタート。小月バイパスは予想したとおり愛車は海からの強風に激しくあおられた。海水の飛散が心配だった黒門もなんとか通過した。
下関から美祢市の木曜日。各地で雨にうたれたがゴールの農園では土埃をあげて木曜日の凱旋した。
昨夜8時ごろだった、スーパー台風に成長するといわれる10号進路予想図を見て目が覚めた。中国地方や四国に九州の方たちも同じだったと思う。豊後水道を北上コースだった(宇部直撃)。
コースから心配されることが次々にうかび、疲れているが眠れなくなった。
9%ハイボールロング缶をあけて(晩酌と寝酒は足りていたのに)録画のビデオを観ることにした。数回観たNHKスペシャル「アウシュヴィッツ死者たちの告白(50分)」
私は記憶力がよくないので「これは」という録画は何度も観る。この番組は3回目。
なぜアフリカの国々の国境線が直線なのかは映画「アラビアのロレンス(約4時間)」を5回ぐらい観て理解できた。
ゴッドファーザー三部作は10時間以上。これも何度も観た。政治家・宗教とマフィアが手をにぎって社会をつくっていることが作品から理解できた。
アウシュヴィッツ。ガス室のちかく地中からガラスビンに入ったメモ。空き缶に入っていたメモなどが大量に発掘されている。
その最初に発見されたガラスビンのなかのメモは1944・11・26の日付。
ユダヤ人を地球上から抹殺することを決めたナチスドイツはアウシュヴィッツだけで110万人ものユダヤ人を殺した。
集められたユダヤ人をガス室にいざなう係・殺した人から髪の毛や金の入れ歯などを集める係・死体を焼却する係・その骨を砕いて川に流す係。
その分業を担ったのは「ゾンダーコマンド」と呼ばれたユダヤ人たちだった。彼らに前後の工程はわからない(じゅうぶんに想像はできた)。目の前にあるものを処理すれば生きていけるという淡い期待はあった。
ナチスは、コマンドたちが連帯して反抗できないように出身地域をバラバラにして処理班を編成した。
けれどもコマンドたちは、自分が助かりたいとの思いで同胞殺戮に加担した自分との葛藤のなかでガス室爆破計画を連帯して作り上げた。もちろん命は捨てる覚悟ができた。
その計画前に、コマンドたちが死んだらこの惨劇が後世に伝えられない。
自分たちが、各々の持ち場でやらされたことをメモにしてガス室周辺にビンや缶に入れて埋めた。ガス室爆破計画は失敗。全員射殺された。
たまたま発掘されたビン。判読できなくなった文字をデジタル技術で判読「たくさん埋めている拾い集めてほしい」
戦争裁判でナチス指揮官「私はユダヤ人をひとりも殺していません」と。
宇部市や小野田市など戦前、戦中の炭鉱で働いた朝鮮の人から聞いた。
いわゆる班長は同胞だった。その日のノルマを言い渡され、それが達成できないときは木刀などで叩かれました。つまり日本人は朝鮮人を殴ったりしていません。という図式になる。
アウシュヴィッツと宇部の炭鉱を同じに考えることはできないが。
いまの政治家も手を汚さずに(とかげの尻尾切り)生きる術を身につけている。
久しぶり、少し二日酔い気味で3時起床。
てきぱき動いて5時半に農園スタート。虹が立っていた。
水曜日は下関市。10時に山の田「ちょぼハウス」に必ず立ち寄る。スペシャルエッグ(たまごでスペシャルオリンピックス応援)の簡単な打ち合わせ。
婆さん、失礼バーバラさんたちと元気な会話。2月に松村御大召集令状「ふく宴会」でバーバラさんたちと気炎をあげたが、松村御大ご尽力で使わせてもらえるスペシャルオリンピックス下関拠点「ちょぼハウス」毎週必ずお会いするバーバラさんたちとちなみが重なりとても仲良くなりました。
バーバラ企画がシャツを制作されました。
「あだち美術館」にそれを載せました。一枚2000円で知的に障害がある子供たちのスポーツに協賛できます。
ぜひお買い求めくださいませんか。
今朝5時半。虹が立っていた。
いつものように網戸全開で寝ていた。暑くて起きたのは2時。シャツの首まわりが汗。農園にしては寝苦しい夜だった。
火曜日の朝はゆっくり動いている。4時にテレビのニュースを聞きながら起床。
味噌汁のダシをとりながら部屋の掃除機。昨夜洗った食器を棚に戻す。家内が千切りにしてくれたキャベツを加熱。昨夜の残り煮魚(仙崎のサバ)意外にうまかった。バナナを少しで5時。
犬の散歩。ハッピーとゆきちゃんは散歩まで排泄は辛抱できる。散歩のときズボンのポケットにはスプレー殺虫剤。桜などが夏バテで弱っている、その弱味につけこんで葉っぱを食べる虫が大発生している。犬は排泄場所を決めながら歩き、私はスプレー片手に駆除で歩く。しっかり汗をかいたのでシャワーを済ませて着替えた。農園スタートは6時半。
きのう美祢市で収穫直前の田んぼが「ウンカ」の大発生で甚大な被害を目の当たりにした。山口市内も同じように稲が随所で倒れていた。
台風9号の動きが気になる。明日の夜は停電するかもわからない。3日の瀬戸内海(宇部)の波高を検索したら3㍍。3日の木曜日は下関市の海岸地域を2ヶ所通過するので気になる。
もっと気になるのは10号。スーパー台風にまで成長して豊後水道を北上コース予測も出てきた。