追悼の金曜日になった

きょうはお盆の金曜日「あだち美術館」は、5月、不慮の交通事故で亡くなられた松前了嗣さんの追悼をすることに決めていた。関係者みなさんにお願いして初盆にあわせ追悼の言葉をお願いしていた。

松前さんを偲ぶことができる、Facebook投稿も集めて準備は整っていた。が、編集は未定。


数日前から8月11日が気持ちの奥でチクリと気になっていた。

平成2年8月11日、立川冨美子先生は87歳でお国替えされた。その冨美子先生の子供、立川和正先生は私の中学2年と3年の学級担任(3年の秋、事情で中学教師を辞め金光教教師の道に入った)。

私を育ててくれた恩人であり、その恩人とさまざまな事があり、農園をはじめる数年前、私は背をむけた。葬儀には参列した。誤解が互いにあったのではないかと今では思う。


中学1年から2年になるときのクラス(50人×15クラスあった)編成で教師が誰も「足立進」をとらなかったらしい。立川先生が「足立進」を引き受けた。

山大工学部の用務員の母と二人暮らし、参観日や運動会に母は来られなかった。運動会の日曜日は人の日直をして家計を支えた。私の友だちは同じような境遇だった。


2年の夏休み前「おまえキャンプは好きか」と担任がこっそり聞いた。キャンプをしたことはないが「好きじゃ」と返答したら秋吉台キャンプに誘われた。金光教フォーゲルという組織の隊長を担任はしていた。参加費は要らんから米は持って来い。母は米だけで2泊3日預かってくれることに喜んだ。


その秋吉台キャンプ。飯ごうのお米とお湯を間違え、お米が炊けたと思ってお湯の飯ごうをひっくり返した。軍手に熱湯がかかった。軍手はそのままで隊長はマツダキャロルに私を放り込んで病院に急行。私は指の痛みと治療費のことで唸った。その治療費は隊長が払って終わった。


その出来事が私と金光教とのご縁。後日「教会に行こう」と母を誘った。母は教会の入り口で「あっ!」と声をあげた。

9人兄妹の長女で、小学校をおえて松江に奉公に出されたとき、その店の女将さんが毎朝、金光教松江北掘教会に人力車で参拝され、母はそのあとを走ってお供させられた。その教会入り口に掛けてあった旗と同じものがあった。


秋吉台キャンプがなかったら悪友たちと人生を歩んでいたかもしれない。野外活動で人生の転機があった。


30年ぐらい前のこと。

東京在住で金光教ご信者さんが参拝の教会で「ご先祖はどうなっておるか」と問われた。調べてみると宇部市内の教会に参っていたことがわかった。そこで、当時、市内に6つあった金光教の教会に電話をして⚪⚪(姓名はふせる)をご存知ありませんかと聞いた。そのとき冨美子先生が電話応対をして「⚪⚪さんは私の教会に参っておられ霊人簿にお名前がある」ということになった。


東京のかたはご高齢で「お骨をこちらで供養したい」と申し出られた。そのことが私にご用ということで申し付けられた。

市役所で⚪⚪さんの墓を確認して昼間に行って小さな墓石を確認した。その夜お骨を掘りにひとりで行った。割れた骨壷のなかに骨はなく土だったがそれを袋に詰めた。そのあとのことは知らない。


その掘った墓地のなかに立川家の墓を見つけた。20数年前お参りしたときの墓とは別の新しい墓になっていた。いろいろな事情があったのだろう。

20数年前、広い墓地の記憶は全くない。麦わら帽子でペットボトルを持って探しはじめたら、わずかな時間でまるで導かれるように墓の前にたった。


湯田温泉「温泉の森」でさっぱりして「あだち美術館」更新の予定で行ったらお盆で駐車場は満車状態だったのでパス。更新にWi-Fiを長時間使うのでフジグラン(商業施設)のフリースペースの小さい机を確保して90分かけて松前了嗣さん追悼ができた。


墓地からフジグランのあいだに菊川画廊立ち寄り。人工知能ではおよばない世界がある。という話しに花を咲かせた。