今村明監督を思い出した高校野球熱戦

夏の甲子園。感動の幕をおろした。


4年前に亡くなられた今村明さん。

20年ほど前「関東からUターンしました。自宅は船木です。知り合いから農園を紹介してもらいました。夫婦で少ない数ですが配達してください」その電話から今村さん夫妻との交流が始まった。


水曜日の朝8時ごろ配達に行くと元気いっぱいの奥さまが裏口に出てこられる。毎週の会話が重なるうちに、奥さまは20歳ごろ競技カルタで4年クィーンの座におられた今村美智子さん。コミック「ちはやふる」に実名で登場の有名人とわかった。


ご主人は無口、無愛想な大男。あるとき思いきって挨拶をした。笑顔はなく会釈はしてくれた。


挨拶を続け、ある朝「Uターンでご自宅に戻られる前はどんなお仕事をされていましたか」と聞いた「専修大学をご存知かね」私は「知りません」と正直に答えた。その「知りません」に「僕は、その大学で野球監督をしていた」と仏頂面で話された。


生真面目を絵に描いたような人物。あとから知ったその一端は。お見合いのあと初デートで喫茶店に行った。テーブルのコーヒーをグッと飲みほして「出ましょうか」には驚いたと美智子さん。


水曜日。8時から30分、裏口談義が始まった。そのために椅子が用意された。

東都大学野球で20数年ぶりの優勝の監督。退職され地元に戻ったら各地の高校から監督就任のラブコールがあったが「いま、懸命にやっている監督がチームを育てます」とお断りされた。


監督時代のエピソードは毎週聞かせてもらえた。

合宿所に毎晩通って勉強を教えた(もともと高校教師)

プロに入れるのは少ない、入れなかったら社会人として働く。そのとき恥ずかしくない勉強をやっておこうと高校生テキストで勉強した。

お前らは字が下手すぎると習字の達人を招いて書道教室もやった。その教室で監督も学び晩年は寺の塔婆を書くボランティアをされた。


部員卒業前の就職活動に奔走して夜中に合宿所に戻ったら部員たちがマージャンに興じていた。全員外に並ばせて骨折しない程度で「けつバット」あれこれ言うより叩いたほうがよくわかる。


翌朝、日の出前の自宅の庭に部員全員が並んで立っていた。みんな頭をまるめていた。


大学野球監督。当時はプロから選手引き抜きの甘い話はたくさんあったが全部断った。


ある朝、今村談義の前を中学生が遅刻で全力疾走した。その走りぶりが監督の目にとまった「おい!とまれ」と大声でとめた。

「君は運動部だね、何をやっているかね」と「野球でピッチャーです」と返答すると監督は中学生の足を掴んで靴の底を見た「君の走り方は」と走り方についてアドバイスをしたあと「早く行け、走れ!」と尻を叩いた。


亡くなられる年の2月。松村御大主催の「ふく宴会(恒例)」に夫妻で出席され最後は自慢の相撲甚句を朗々と披露された。国体相撲で県の候補になった昔がある。

その宴会翌日は、高知県で専修大学野球部がキャンプをする。それに招かれていた。「ふく宴会」で飲みきれなかった東洋美人の一升瓶を「高知の土産に」とみなさんが託した。

監督の運転で奥さまと四国を楽しまれた。


4月、私が企画した「萩浜坂散策」に行きたいが体調がすぐれないと連絡があったので「農園まで来てください。そのあとはまかせてください」で浜坂をご一緒した。歩きぶりがよくなかった。解散して監督を車に乗せて農園に戻った。途中レストランに寄ったが箸がすすまなかった。


それから2週間。奥さまの運転で夫妻が農園に立ち寄られた「検診の結果ガンでした。抗がん剤治療ですが、明さんは禿げているので大丈夫です」と大笑いした。


そのふた月あと、訃報で夕方お通夜に配達の途中で参列した。美智子さんが「なにか思い出を」とリクエストされ何かを話した。


翌日のご葬儀は、監督をおしむような落雷と豪雨だった。棺にユニホームの監督。プロ野球選手や球団からの献花がずらりとならび今村監督人生を飾った。


高校野球をみるたびに今村監督を思い出す。