宇部空襲を生きた母から命をいただいた

6年前、96歳でお国替えした母。私を戸籍で認知した父親のことは一切語らず。出雲の母がどうして宇部で生活したのか言わなかった。


出雲弁で「おじぇえ」は「こわい」という方言。子供のとき花火を見て思わずでた母の方言。火災現場に急行する消防車のサイレンにも方言が出たことがある。


その「おじぇえ」は話してくれた。

花火もサイレンも宇部空襲を思い出すと。その空襲のとき母は27歳。港町の保健所そばに住んでおり焼け出されたらしい。


誰を頼ったのか。どこで食べさせてもらったのか。私が生まれる6年前、焼夷弾のなかを生き延びてくれた。


配達を終えて農園に戻る午後1時過ぎ。九州方面に待つ黒な雨雲がわいてきた。アプリの雨雲レーダーで確認したら30分あとに農園地域も短時間ながら激しい雨が予報されていた。


激しい雨雲を背に受けて農園に走るとき、後方は吐しゃ雨でも前方は晴れている。

年配らしきバイクの人は、空を眺めてバス停に止めて雨をやり過ごす。

若いライダーの一団は真っ黒な雨雲に向かって走って行った。せめてスマホで雨雲を確認すればよいのにと思った。


海釣りやキャンプが趣味だった。専門的な気象の知識はないが、雲や風をみて少しは予測ができる。


約30年ほど前の写真を載せます。