母の誕生日

神戸避難所で知り合ったつよい宮崎弁の牧さん。当時は26歳でいまは55歳になった独身。彼がLineで送ってきた富士山。想像するに、走行中ハンドルを両足の太ももでおさえスマホ撮影。そのままLine送信ぐらいは平気でやる。世界100ヵ国以上、現地のレンタカーで走っている人物。

電話したら「きょうはサダ子(私の母・7年前96歳他界)の誕生日だったね!」と言う不思議な人物。


朝ドラ「ブギウギ」は終戦直後、社会が混乱しているなか、母子家庭で子育てをしている主人公に母を重ねてみることが多い。


出雲で大正8年2月16日。9人兄妹の長女として生を受けた母。親戚もない宇部に住み私を育てたことは理由は一言も言わなかった。


幼いとき母に、どうして父親がいないのかを聞いたら「センシした」とこたえた。ある時「あんたの父ちゃんは」と近所の人に聞かれて「センシした」と言ったら大笑いされ、母のそれが嘘だとわかった(私は昭和26年生まれ)


神原公園のベンチで焼き芋を食べている人が捨てた芋の皮を拾って食べた。それを母に告げ口した仲間がいた。

夕方、そのことではじめて、しこたま母から殴られ泣いた。母も泣いていた。


電話交換手の国家資格をとり、山大工学部の交換手に奉職。官舎という二間。6軒ぐらいで便所と五右衛門風呂を使う生活も覚えている。

電話交換が自動になり、母は生活のため交換手から用務員に校内の草刈り便所掃除をして私を育てた。


今朝、布団をあげ掃除機をかけたあと神様棚の掃除をした。神様と母と、私を導いてくださった玉井先生(金光教早島)を祀っている。


臨終がちかくなったころ「帰りは◯◯に寄って食べて帰ったらええ」と父親の名前を私につぶやいた。


私は、母の葬儀が終わったあとに◯◯の墓に参った。


母は父親を語らなかったが墓だけはさがして場所はわかっていた。


母が俳句を詠んでいたことは、宇部市が選句するなかでも賞を得ていたことは遺品の整理をするまで知らなかった。80歳を過ぎて俳句に終止符をうつ最後の「句」に愛した人にあいたい。とよみとれる一句を遺していた。


きょうは母が生まれた日。


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