夕方、配達の終わりに山口市内のスーパーに立ち寄り夕飯の買い物。10年以上、毎朝の納豆が習慣になっている。いつも買い求める納豆は、熊本県宇土市に工場があり震災で操業停止。売り場のはり紙が被災地の現実を伝えていた。その納豆が商品棚に鎮座していた。少ない数から推しはかるとみなさんが買われたのだろうと感じた。明日のホーム写真で復活納豆を紹介します。
5月が終わろうとしている。タブレット使用量は4,5ギガバイト。本日の歩数計14000歩。
6月のメイン行事は、母の納骨で京都行き。
月末を無事に迎えさせていただいたことを、神様と母に感謝の柏手で御礼。
月曜日は岡本拓也さんのお宅に配達がスタート。岡本さんはフェイスブックに精通されて、なかでもお母さんの一枚を撮り笑えたり考えたりするキャプションが上手。そのお母さんを一枚撮らせていただいた。昨年秋の味噌づくりと二枚、明日アップします。
大分県小鹿田(おんた)の地名を読める人は少ない。山口県では下関市特牛(こっとい)下関市日内(うつい)長門市日置(へき)など固有名詞は難しい。八女市の奥、大分県に隣接する矢部村には多郎良(たろら)姓。
配達の新規お客さまは、固有名詞で地図の探し方がわからないときもある。
囲炉裏の部屋を開設したタイミングで「お誕生日おめでとう!」のメールが届いた。送信元がわからないので問い合わせ返信をした。以後、23歳と名乗るメールが頻繁に届く。料理の写真添付で 食べに来ませんか。彼氏はいません。ラインで話しませんか。
予想できる結末は、親族が病気になりお金が必要。ぐらいの落ちだろう。新手の詐欺しか正体。
ムカデが入る場所を突き止めたから安眠できた。すでに部屋に入っているかもわからないから、枕元にハエタタキはまだ置いた。
正志は6時前に来て、小雨の中で仕事をはじめた。手伝えば彼はそのぶん楽だろうが、それで彼に力がつくとは思えない。ゆっくり食事を済ませて、犬の散歩も済ませて山口市内に出た。
タブレットを今より便利に使いこなしたいので、Wi-Fiが使えるコンビニにとめてホットコーヒーを飲みながら約一時間、動画録画アプリなどを試した。
京都の照美さんから、母の納骨(来月)を済ませた後の京都観光プランがメールで届いたので、そのプランをネットで探し「オフラインで読む」機能で保存した。今夜ゆっくり見るために。
山口市内、NTT西日本の総務からアルミ缶がありますとご連絡をいただいていた。独身寮から大量に出るアルミ缶を洗ってまとめてくださる。それを荷台が空だから引き取りに行った。
すぐ近くに簡保の湯があることを思いだし立ち寄り湯。敷地から出る温泉かけながし600円。
ゆっくり日曜日を過ごした。
農園入口の石碑 念ずれば 花ひらく は世界で542番碑で登録されている。その石碑を1番から訪ね歩き、石碑が建立された経緯を、建立した人から聞き取り映像と共に記録に遺す作業をされている年輩のご夫婦が愛媛県松山市から自家用車で来園された。道案内は糸賀社長。
坂村真民先生は、世界中に1000の 念ずれば花ひらく を建立される夢を抱いておられたが、732番(沖縄)で世を去られた。農園の石碑には特徴がある。書を書かれたご年齢が記されている「鳩寿一 真民(鳩は9 寿は10 つまり91歳)」とある。記録の完成は年内と言われた。明日、ご夫妻と書の写真を掲載します。
今年はすでに4匹の大型ムカデを部屋で殺した。地域の男性は軍手の中にムカデがおり激痛で刺された。病院に車で行き治療中に毒がまわり目が見えなくなり、救急搬送で大学病院に行き専門治療を受けた。
山のなかとはいえ、二階の部屋に毎年出てくるムカデの入口を毎日推理していた。
一番出没するところは、トイレつきユニットバス。プラスチックの部屋になぜ出るか。外界とは排水口と1ヶ所サッシのまど。サッシがあやしいと思い、建物の外からサッシを眺めた。建築時に防腐剤処理した電柱をたくさん手に入れて柱に使った。その柱がサッシのまじかにある。けれども網戸(上下2枚)はきっちり締まりすき間はない。
ところが、2枚のサッシが重なる部分はわたしの指に力を入れたら指が入るぐらいユルユルだった。
今夜から、網戸をやめてガラスサッシを締める。
水曜日のお客さま「わが家には二つの家訓があります」と切り出された。 挨拶は人より先に 美味しいものはみんなでたべる。
昨年、菜園で安納芋がよくできた。横浜で生活している長男に送った。狭い庭で焼き芋をしたとき幼い子供が美味しくて喜んだ。通行人のそばにかけより「美味しいですよ」と一本差し出した。お客さまは目を細めて話された。
わたしは母から勉強しなさいと言われたことがない。成績はよくなかった。夜、少しでも勉強しなければと机に向かっていると「電気代が惜しいから早く寝なさい」と言われたこともある。
その母が口やかましく言っていたのは、おおきな声で挨拶しなさいだった。いま振り返ってみると、わたしは挨拶で人生を歩んできたように思う。
携帯電話メールに数多くの迷惑メールが着信する。送信もとはバソコン。パソコンからのメールは拒否設定にして静かになった。
タブレットのには23歳を名のる、女性名で「覚えていらっしゃいますか」と。これも迷惑メール。
わたしのタブレットから携帯電話に記号のメールがナリスマシで3度届いた。添付ファイルのおまけつき。
今朝はやく貴美さん(松村御大奧さま)からメール着。御大きのう四国に発ち、今朝からお遍路をはじめている内容だった。50日で歩ききる計画。フルマラソンや自転車など次々と困難に向かわれる姿に仲間たちは勇気をいただいている。今回の大願成就を、毎日の祈りに加えたい。
高杉晋作を祭る長府東行庵のそば「茶房庵しみず」ご夫妻はランナー。ご主人はスポーツマンだが奧さまは難病をかかえている。厚生省に難病指定の申請をする事務局もされている。ご主人のリードで10キロを毎日走られ、海峡フルマラソンや、ふるさと宮崎の太平洋フルマラソン?も完走された。今年の年末、ホノルルマラソンにエントリーされた。
加奈ちゃん午後の配達。きょうもパン教室中「おいちゃん」と元気な笑顔。きのう下関垢田中学校で「夢をかなえる」の演題で講演したらしい「おいちゃんのこともはなした」
みなさん元気。で、俺はどうするか。
明日の写真は加奈ちゃん
囲炉裏の部屋 のかたちを決めたいと毎日考えている。大原則は、書くことでわたしの考え方を整理する。つまり、読み手があろうがあるまいが、それを意識しない。
扉の写真二枚は日々更新。更新時間は午前中。母は俳句を日々詠んだ。わたしは毎日のなかで目にとまるモノを写しとるようにしたい。
日記は夜8時ぐらいまでには書き終える。
当面はこれぐらいを念頭にすすめてみたい。
菅原文太さんが調査捕鯨に同行され、命をいただく(食べる)ことを深く考えられた番組が再放送され観た。パックに詰められグラムが何円。賞味期限はいつまでの表示から、その食品には命があったことは想像し難い。命を断ち、その命から生きる糧を得ている厳粛な事実を、もしかすると知らないままに命を論じていることもある。そのことを考える番組だった。
猟師さんが畑や田を荒らすイノシンを駆除として殺し、その肉を仲間で食べる解体現場に遭遇した写真二枚を明日アップします。見たくない方は、明日は飛ばしてください。
タブレットを持って朝のトイレは日課。今朝も、ゆっくり新聞読みながらで座った。視野のはしにうごめく黒い長いものがある。大型のムカデだった。浴槽の隙間に入った。すぐにハエタタキを取りにいき、隙間から出てくるのを待った。時間的には30分ぐらいは待てる。しばらくして元気に走るムカデが登場。一撃で殺した。
山口市内の配達を終えて農園。自宅に戻る前に家内は台所で慌ただしい。ビールを飲みながら、朝のムカデが大型で元気だったかを家内の背中に話していたら「ムカデ!」と家内が悲鳴をあげた。台所の横にうごめく長いムカデ。瞬間わたしはハエタタキで一撃。致命傷にはいたらず逃げた。ハエタタキをかざして台所周囲のものをひっくり返してムカデ捜査。発見して処分。
自然のなかで生活するとはこういうこと。
歩数計 12000歩
昨夜9時からのNhkスペシャル「人生の(終わり)しまい方」を録画して、今朝早起きして前半を観た。
90歳を過ぎた女性が末期がん。余命宣告を受けても自宅で痛みに耐える。知的障がいの60歳過ぎの一人娘の世話がある。
50年以上、この娘と生きる糧として小さい居酒屋を切り盛りした。誠実な経営に客は「お母さん」と呼び、人生を相談する客もたくさんいた。かたわらには娘がいつも立たされ、笑顔で立っていた。この愛娘になにも遺せない悔しさと心配を抱いて天国に召された。
葬儀のあと常連客50人が偲ぶ会を挙行。娘の支援が会場で確認された。
誠実に生き抜き、なんとおおきなものを愛娘に遺したか。
わたしの母は、勉強せいとは一度もわたしに言わなかった。けれども近所の人や、母の同僚に元気に挨拶をしなかったらきつく叱った。いまも挨拶は誰にでも私からできるクセを遺した。
菊川さんは10年以上、夜明け前の常盤公園遊歩道(6キロメートル)を歩き続けている。ウォーキングの目的は健康管理が一般的であるが、彼の場合は四季彩(色彩)を愛でること。朝日が昇る前、空の色が様々な表情をみせる。
今朝、5時前に台所に立っていたら菊川さんが言われる日の出前の空が鮮やかに見えた。さっそく一枚撮った。23日にみなさんにご披露しよう。
もう一枚は、唐戸の理髪店カットインパラダイスの中山さんが鉛筆で仕上げた安倍総理の似顔絵。額縁も中山さん作品。明日はこの二枚を載せます。
正志は五時半から働きだした。わたしは、ゆっくり朝食を済ませて、愛犬と長距離散歩。
長府の方からスポット注文があり配達。お届け前に長府城下をゆっくり散策が楽しめた。帰りに温泉立ち寄り。
よい日曜日を過ごした。
人はうまれて、おおきな屋敷の電球を点けてまわるように人生を歩いているように思う。たくさんの可能性を実現させるかのように。
歳を重ねると、それまで出来ていたことが出来なくなるようになる。それは、点けた灯りを消して歩いているように思う。
昨年までに、数々の物語を演じた愛犬たちが次々と旅立ち、推定年齢が8歳のハッピー1頭だけになった。この愛犬を看とるまで私が元気でおれるかどうか。わたしの犬たちは20年ちかく生きている。
最近、わたしと同じ歳の方が下関市愛護センターで保護中の犬が産んだ子犬を引き受けられた。♂で「そら」と命名され成長している。飼い主さんに、飼い主の寿命と子犬の寿命を話題にした。
この犬を励みにボクは健康管理に気を配り、前向きに毎日を過ごすきっかけに飼いました。
わたしも消して歩く毎日のなかで、ひとつぐらいは点けてみょうかと考えはじめている。
午後2時から桝添知事の記者会見をみた。
司馬遼太郎さんが「この国のかたち」の中で柱にしたのは
。◆名こそ惜しけれ◆公に生きる の二つとわたしは感じている。日本の背骨にこの二つがあったから明治維新からの国ができた。
釈明もできない逃げ腰会見に、のちほど批評家たちは言いたい放題。ついでに元の妻まで見下す発言。知事の姿勢が正しいなどとは思わないが、批評家たちはどれだけ立派に生きておるのかを思う。
前の仕事をしているときは会社の金は自由に使えた。法人税はほどほどにして使う道を税理士が暗に示唆もした。つまり、税金で遊ぶことはわたしはできないが、経費の名目でかなり浪費をした。
いまは浪費ができないが、できたとしてもやらないだろう。たぶん?
人は他人に厳しく、己には甘くなる。
農園日記 自分史14 で、新倉敷の焼き鳥「鳥田金(とだきん)の店主をテーマにした。
下関のリトル釜山 グリーンモールに、ランチと韓国小物店ソリナムをはじめた 歌姫の呉明美(お・みょんみ)さん。タマゴを納品に行った。彼女のご両親が開店準備のお手伝い。明美さんは8月に二人目をしゅっさん。
お父さんは倉敷周辺で仕事をされていた時期があり鳥田金の常連客。昔話でたのしかった。わたしがホルモンの「ポプラ」にも通っていたことを言うと「あの店も同胞でホルモンは旨かったね。しかし足立さんは詳しいね」と驚かれた。
いまあの地域、水島は基幹産業の三菱乗用車が頓挫して、酒をのみ歩く人は少ないだろう。
http://www.jissenjin.or.jp/
20数年前、ご縁があり釜山小学校副校長 李 政基(り・じょんぎ)先生と親しくさせていただいた。先生は、森信三師の実践人の会に韓国から通われていた。
わたしは李先生から森信三先生を教えていただいた。李先生は年間に数十回訪日されて立腰教育など、全国のおもに小学校を講演行脚されていた。お孫さんのチヨン 女子大学がわが家に一週間滞在したこともある。鍵山先生から、東京に来させてくださいと連絡があり、チヨンは小野寺副社長の自宅に数日滞在した。
その実践人の会に藤野先生が講師で招かれた。上記のアドレスで実践人の会がてます。その行事予定の8月を開くと、なんと凶悪そうな藤野先生の顔写真と講演内容を見ることができます。
朝2時に寒くて目がさめた。冬の掛け布団を出した。愛犬にも過保護と思いつつタオルケットをかけた。
日中、奇妙なことがあった。わたしのタブレットアドレスから、わたしの携帯電話アドレスに添付ファイル付きのメールが届いた。
タブレットがウィルス感染して、タブレットに登録しているアドレスに迷惑添付を拡散していることを疑った。何人かにメールが届いていないかを電車確認をしたら、それはなかった。一応、ドコモの宮川さん 宇部掃除代表者 に連絡しておいた。
夕食を済ませ食器を洗い終わったとき、数楽の藤野先生が来園。わたしはアルコール入りで少しは支離滅裂。けれども 鍵山先生門下生 と勝手な思い込みでも、少しは生き方の軌道がよいほうに変わったと、気持ちが同じと確認できた。
美祢市。年末に線路の向こうで動いたタヌキをめがけて全力疾走して電車に跳ねられた甲斐犬(カイちゃん4歳)。飼い主は、下関市動物愛護センターで捕獲されたメス犬が、センターで出産した子犬を引き受け(ソラちゃん)と命名して飼われている。
母犬や兄弟はその後どうなったのかわからないが、ソラちゃんは家族になり幸せ。月曜日はソラちゃんに会えるから嬉しい。きょうもたくさん遊んだ。
小野田市に食べ処「海将」があった。イケスに地元の魚が泳ぎ、肉も魚も味わえる繁盛店だった。10年ぐらい前、わたしが養鶏をはじめた経緯をローカル紙が伝えた。
夜中に「来週からタマゴを納品できるかね」と電話が大将からいただいた。後日奥さまが「あの新聞記事を読んで、どうせ買うならここに変えよう」とつぶやいたらしい。単価は聞かずに毎週180個の注文。
納品で大将(50歳ぐらいか)に教わることが多かった。例えば、雨続きで客足を心配するわたしに「客足が少ないことを雨のせいにしたらいけん。旨いものなら雨でも来る」
繁盛店を半年あとにやめると言われたのは2年前、奧さまの父親、義父が営む浄化槽管理会社を継いでくれと頭を下げられた。彼は店をやりながら大型免許をとりに自動車学校に通い取得した。大勢の常連客に惜しまれのれんを下ろした。
その彼が、農園の浄化槽を管理していた。わたしの留守中に来園し社長名刺を置いていた。懐かしくて名刺のアドレスに近況を伝えた。今朝、彼らしいぶっきらぼうでも味のある返信が届いた。
木曜日、下関市内移動中に愛車の走行が20万キロメートルに達した。新車から約3年目。
いま美祢市。農園に4時までに戻り2時間草刈り予定。
先日、下関から ふく鍋隊 が熊本被災地奉仕に行った。マスコミ報道で活躍ぶりは周知のとおり。
山口市で活躍の実業家 垣内さんは、松村御大のお声かけで参加された。たしか70歳は越えておられるが、毎日2キロの水泳と掃除が生活の大黒柱。
垣内さんと先日お会いした。ボクは料理は苦手だから避難所の仮設トイレ掃除ばかりやりました。
頭がさがる思いで話を聞いた。
農園をはじめて間もないとき、松山市の坂村真民先生から 念ずれば花ひらく の大きな書を頂戴した。
わたしは、真民先生を仏教詩人としてお名前は存じ上げていたが、書を頂戴する理由がわからなかった。封筒には、あなたが志たかく事業をはじめることを知り贈ります。できれば地元の石に刻み石碑にしてください。石碑になれば、世界で542番目の 念ずれば花ひらく になります。
お電話でお礼を申し上げ、直接お礼を申し上げにまいりますと言うと。あんたは忙しい身だから来んでもええ。
書は菊川画廊に表装を頼み、石碑は地元の石材店に発注した。さらに朴の木を植えてくれと先生から言われ植えた。
石碑を巡り、映像と石碑にまつわるエピソードを記録する方から連絡があり、月末に来られる。わたしを真民先生に紹介してくたさった方はもちろん鍵山先生。
小野田市内。ある小学校関係者から(猿回しを生徒に見せたい)と相談があり、周防猿舞い座の村崎さんに電話で打診。明日、ギャラなどを決めることにした。
午後から湯田温泉(温泉の森)でさっぱりして、フジグラン店内Wi-Fi使えるコーナーにて重枝さんにホームページをご指導いただいた。