あだち美術館更新しました。お入りください。

とても楽しかった藤中さん来園。


昨年、12時間におよぶ心臓手術をされ気力も体力も衰えておられた藤中さんは私と年齢が同じ「春になったら農園に桜を見に行きたい」それを目標に回復された。桜の時期はのがしたが、きのうそれが実現した。


午後、JR厚東駅で下車してもらい半月前から「友人とまいります」と菊川画廊に連絡していた。松田正平展覧会にご案内。画廊も歓待してくださった。


そのあと、40歳のとき地元の歴史に取り組んだ「長生炭鉱水没事故」その現場にご案内。その後、西日本最大のお茶畑に案内。


農園に戻り夕食。酒は日本酒・ビール・ワインにブランデーに焼酎を並べていた。エミリアのスープ・牧さんから届いた鮭「ときしらず」ムニエル・家内がひいた「ふく(量は少し)」野菜煮物にカサゴの唐揚げなどテーブルにならび歓談。始まって30分ほどで新保さん山口から来てくれた。

藤中さんが長府で活弁映画や地域の催しのリーダーをされており、新保さんも山口市で狂言や活弁に講談など日本文化の発信をされており「藤中さんにお会いしたい」と来られた。

8時過ぎ、藤中さん新保さんに私夫婦と愛犬でホタル鑑賞。ここで新保さんはシンデレラ。


藤中さんの飲酒量はほんとうにわずか。私は3種混合でグイグイ。12時ごろまで会話のベルトがまわり続けた。音楽と思って録画している村治佳織コンサートをつけたら「僕は村治佳織が大好き」と意気投合。それを聞きながら神様談義で終わった。私が疲れた。藤中さんは神様の本を読みたいと寝床に持っていった。


やっぱり4時前に目があいた。昨夜のアルコールはない。犬が散歩を待っている。焼却ゴミなどいつもの朝をむかえた。

朝食の前、録画の「京都迎賓館」を画面に出したら藤中さんは画面かぶりつきで「すごい」を連発していた。味噌汁はおかわりしてくれた。コーヒー飲んでお見送りを兼ねて美祢市観光。


スタートは大嶺炭鉱「キーストーン」坑道入り口の石積の要石(キーストーン)に桜に錨の海軍紀章が刻まれており、海軍が使う煙が少ない無煙炭はここ御用達だった。


吉田松蔭先生、21歳のとき九州に遊学されたとき宿泊された宿。奇兵隊諸隊の陣屋跡を案内して美祢市小杉の白虎隊ゆかりの楢崎家跡地にご案内。自刃できなかった少年隊士の飯盛貞吉を会津から小杉まで連れて帰り養育した場所にご案内。


藤中さんが「飯盛貞吉知っている」と戊辰戦争を語りはじめた。会津に攻めいった長州藩士が数年も会津に留まり再建に従事した。会津の人たちと交流がうまれ会津の盆踊りを萩に伝えた、つまり萩の盆踊りは会津の影響を受けている。そのことを調べたことがあったと。


閉校「川南小学校」は、高見文部大臣の学舎。そこには木彫りの大作が廊下にずらりと並んでいる。萬代さんに「藤中さんに見せたいから開錠してくれんかね」と電話したら「わかった」と開けてくれ藤中さんに郷土の宝物をご案内してもらった。

私が美祢市で大好きな「持田」の風景をご覧いただいた。


次はJR厚保駅に行った。併設の地域交流ステーション。4年、毎週木曜日に立ち寄っている。リーダーの大橋さんが美祢線存続のイベントについて藤中さんと情報交換。


そのあと神功皇后神社を一緒に参拝してガイドを終えた。JR長府駅まで見送って別れた。


防府トヨタ1時。

愛車は、オイル交換・タイヤローテーション・バッテリー交換・前輪ディスクパッド交換など90分ちかくを要した。

1年と半年で10万㎞走った愛車のメンテナンス。


写真は菊川画廊。松田正平自画像と撮った。藤中さん自慢のシャツを裏表ちがえた悲しい一枚。