昼間の萩市を訪れました

 金光教太秦教会長の上野正常先生(長女、照美さんの夫)に今朝は長電話した。


 母は7年前(96歳の長寿を全う)に火葬のあとしばらく農園、私の部屋でお骨は鎮まってもらった。先祖代々の墓がないのでそうなった。骨壷は、今村明さん謹製。このまま袱紗に包んで部屋でよいと思ったが思案の末、太秦教会の奥城(信徒・教徒や関係者が納骨できる大きな墓)にお祀りを支えていただき鎮まってもらった。


 場所は金閣寺と仁和寺のあいだ「絹掛けの道」近くの墓地にその奥城はある。


 姉さん女房の私は古希を越え、知人と別れる年齢になった。で、私たちはどこで鎮まるかを考え続けてきた。

 その結論を教会長に長々と説明した。その納骨の場ができたとき母を京都から連れ帰り入ってもらう。その後、我々もそこに入る。壺には入れずに袱紗で包むだけにして土になる。


 大切なことは「お骨」ではなく感謝の祀りを続けることと思う。その日は太秦教会、例年春と秋の霊祭になる。同時に先生に毎年お出でいただきその場でもお祭りを仕えてもらう。


 そのことをお伺いではなく「決めました」という内容の長電話。


 今年はそのことを成就させることに取り組んでいく。


 香月泰男美術館を訪ね、もう一度観ておきたいビデオがあり訪れた。

 香月泰男の著書「私のシベリヤ」1984年初版が私の手元にある。この本は立花隆が東大生のとき学園紛争で授業がなく、親交のあった香月泰男を三隅に訪ねて逗留した。そのとき香月泰男が「私のシベリヤ」を執筆中だった。


 立花隆さんの講演を拝聴したとき。

 香月泰男さんは絵はうまいが文章は下手だったのて僕がリライトした。


 香月泰男の代表作「シベリヤシリーズ」を裏打ちする読み物として今は高価になっているらしい。


 その香月泰男が世を去り、NHKが香月泰男の追体験を立花隆にさせる企画が実現した。

 終戦のあと帰還できる筈の貨物車列車が満州から南下せず北のシベリヤに向かった。その厳冬の列車の旅から撮影が始まった。収容所から遠くの駅で降ろされ幌のないトラックの荷台に積まれて氷点下30℃以下の道を走り収容所。そこで過酷な労働が強いられた。


 トラックに乗り収容所跡地に、日本人として初めて着いた立花隆は凍てついた大地に何柱かの墓標を見つけ、墓標を抱きしめて嗚咽した。


 番組アーカイブを探したが見つからなかった。ずいぶん前、美術館がシベリヤシリーズの展覧会を催したとき訪れて「あの番組ビデオがありますか」と聞いたら喜んでさがしてくださり館内でテレビで再生してくださった。


 もう一度見ておきたいと行ったが、そういうサービスはやらないとピシャリ断られた。

 せっかくなのでチケットを買って展示を観たがシベリヤに関する作品はひとつもなかった。香月が駐屯した満開ハイラルから三隅の奥さまにスケッチをハガキに描いて送り続けた「ハイラル通信」約300枚の展示もなく。売店の土産ハガキにもシベリヤシリーズはなかった。


 17日。3人の萩市ガイドをする。その下見も済ませてきた。


 「あだち美術館」更新しました。お入りください。