母の3年祭がちかくなり

猫がイリコが好物とわかった。頭は食べないからイリコの頭をとって味噌汁の出汁にしている。たまごは売るほどあるから卵焼き、納豆は20年以上欠かしていない。ご飯は玄米。猫が味噌汁をつくらせる。


来月、母の3年祭を太秦教会で仕えていただく。そのこともあり母との思い出を毎日の反芻している。

中学1年生のとき母が半年以上も入院することになった。母の縁者は山口県に一人もいない。私は丸尾の大工さん夫婦(子供がなかった)に預けられた。上宇部中学まで通学するには、始発の新川行きバスに乗り、常盤通り「ちまきや」で降りて、琴崎八幡宮行きに乗り継ぐ毎日と他人の家におらせてもらう窮屈をしっかり味わった。

登校しないほうが多くなったとき担任ではない教師が「キャンプに行こう」と誘ってくれた。米3合と参加費や秋吉台までのバス賃など、お金の自由がなかったがその教師が米もお金も出してくれた。

キャンプ場で飯盒のご飯はが炊けたと思って裏返したら沸騰したお湯だった。軍手の上から煮え湯がかかった。そのとき火傷より「お金がかかる」と病室の母が脳裏にうかんだ。ふもとの病院で軍手を取り除き治療してもらった。お金を払いますと教師に言えなかった。教師も「払え」とは言わなかった。はじめての金光教のキャンプだった。


他人にひとり息子をあずけて入院した母の心境に思いを馳せたらことはなかったが、どれだけ私のことを病床で案じていたのかと思う。


退院してキャンプの火傷を話したら「お礼に行こう」と金光教に行った「あっ!」と母が言った。教会の入り口にあった金光教の提灯。それは、母が9人兄弟の長女で松江の商家に奉公に出された。その商家は松江北堀の金光教に参っており、毎朝奥さまが人力車で朝参りするあとをお供えを持たされて下駄で走った。その提灯があった。


今の高専近くに銭湯があった。官舎に風呂はないので数日おきに通った。ナミキ温泉。あるとき私を抱きしめて「もう死のう」と常盤湖に向かった。ずいぶん深い場所まで行って母は嗚咽した。

その母に私は育ててもらった。


「非凡」

 トイレ掃除というような平凡なことであっても、継続して実行しておりますと、非常に大きな力になります。

 さらに徹底していきますと、平凡なことが非凡に変わっていきます。

 非凡になることは、何も特別なことをすることではありません。

 身の回りのありふれた平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して継続することです。


(PHP研究所:鍵山秀三郎「一日一話」より引用)