「すっぱい」思い出

昨夜、録画の番組「新日本風土記」テーマ「すっぱい」を観た。ウメボシの幼い日がよみがえった。


戦後、戦争未亡人や事情をかかえた女性が社会厚生のための職業訓練施設「厚生館」が琴芝公園ちかくにあり託児所があった。母は山大工学部の電話交換師として働いていたが、私は「こうせいかん」に預けられていた。5時に勤務を終えてむかえに来るころは誰もいない運動場で待っていたらしい。


歩いてすぐ、琴芝駅ちかくの借家。布団打ち直し、洗い張り、大工、造園業がご近所だった。


布団の打ち直しといっても自宅が仕事場で、そこに遊びに行くと綿まみれになり母の機嫌は悪かった。洗い張りの主人はちかくの塩田川でウナギとりをして蒲焼きの煙だけは覚えている。


長くなった。


大工の夫婦に子供はなかった。私を「すっちゃん」と呼んで我が子のようにしてくれ、母は「ばあちゃん」「じいちゃん」と呼んでいた。


「ばあちゃん」は四国の話をよく聞かせてくれた。話は覚えていないが赤いサンゴの髪飾りが自慢の品。キセル(煙管)でキザミ煙草をのんでいた。

私が本を持って行くと「読めない」と押し返した。


中学1年のとき母は首の骨の大きな手術をした。「ばあちゃん」しか私を半年預ける知り合いがなく中学までバスを乗り継ぐ「ばあちゃん」に世話になった。半年の半分ぐらい登校せず問題児だったらしい。


ウメボシ。


「ばあちゃん」が「すっちゃん」天神様を食べんかと、ウメボシの種を割って食べさせられた。

「すっぱい」思い出でがよみがえった。


数年前、「藤田画材店」に立ち寄ったとき、90歳ちかいおばあさん(菊川画廊の話しでは従業員)琴芝駅近辺の昔ばなしになった。「こうせいかん」と言ったら、あなたのお母さんは苦労されたねと「厚生館」のことを教えてくれた。


木曜日の下関。彦島住宅街から対岸の北九州市を撮った。