そらちゃん に思うこと

ゆたかな文化のなかで幸福な人生をいとなむ羅針盤であるべき筈の「信仰」。

そのイスラム教・キリスト教・ユダヤ教の聖地が世紀末の様相を呈している。


多くの日本人は、神仏に手をあわせること、森羅万象が神仏のいとなみと「しつけ」のようなことで身についている。

それは多様性を否定しないという日本人の根底にある宝物。


美祢市の「そらちゃん」

8年前、下関市動物愛護センターで生まれた。


野犬や野良猫が最後に行き着く場所は市町村の「動物愛護センター」到着して一ヶ月ほどでガス安楽死のあと高温で焼かれてカラカラの骨になる。


愛護センターに一度だけ行った。ここに来て一ヶ月、飼いたいたいう人にご縁をつなぐ譲渡会はあるが引き受けてくれる人はまれ。保護の期限がきたら焼かれてカラカラの骨になる。


たくさんの犬や猫を若い女性職員さん。長靴の作業着で餌や排泄物の世話をしていた。


あの環境のなかで母犬から生まれた「そらちゃん」


8年は短い。

けれども、命の長さもあるけれど、家族として迎えられ幸せな日々の8年。


今朝、「そらちゃん」はとおくを見ていた。