平和をあらためて強く願った

仙崎港に引き揚げた人が残した子ども用ワンピース。古いおむつで作った。


五木寛之、ちばてつや、藤原ていに香月泰男。満州から苛酷な引き揚げを強いられた。


木曜日の配達先のおばあちゃんは、満州の新京駅で玉音放送を聞いた。といっても7歳、意味は理解できなかったが翌日から約1年、自宅から出ることは許されず家財を売りながら家族で生きた。「コロ(葫芦島市)まで貨車で行った。食べるものはなく列車は停まらないので床にみんな排泄した」


ミッドウェイやサイパン陥落の頃から大陸の民間・軍属の日本人を送り戻す。それは人道上といえばそうかも知れないが、中国や朝鮮各地で難民となった日本人を現地に残したまま国の再建は困難である。

葫芦島(青島近く)に難民収容所建設が始まった。


舞鶴港は朝鮮半島から引き揚げ船が往復したと思う。地理的に。


博多港と仙崎港には葫芦島からの引き揚げだった。港やその後の交通手段から考えると九州や東京方面に路線がある下関港だったが「海賊とよばれた男(百田尚樹)」が書いた出光佐三が活躍した敗戦の関門海峡はアメリカ軍が投下したおびただしい機雷があり、それで沈没した船舶のマストが海峡に林のように立っていた。そこで仙崎港になった。


仙崎は大陸から引き揚げる人々を受け入れるため学校や寺などを充てた。けれども足りず民泊もあり食料や衛生面など仙崎の市民は奔走されたことと思う。


藤原てい「流れ星は生きている」

新京から藤原正彦(7歳)の手をひいて徒歩で38度線を越えた。アメリカ軍に保護されての治療は、足の裏に刺さった小石の摘出から始まった。


おむつで作った子供用ワンピースの展示。平和でなければならないと強く思った。


台風の接近。停電対策でバスタブは満水にした。鶏舎の雨戸もたてた。発電機も大丈夫。飲料水は、きのう弁天池で10リットル確保。酒も買った。