身近に神様があった時代

 6年前、母がお国替えする数ヶ月前「墓参りしてほしい」と代参を私に頼んだ「近いうちに」とごまかしたら悔いを残すことになると直感した。1週間後、島根県簸川郡斐川町(神話の斐伊川)の墓参りに家内と行った。

 松江市内で泊まり、早朝に発って「足立美術館」に足を伸ばした。9時が開館だったが8時半に着いた「入れてくださいませんか」と声をかけたら「どうぞ」と笑顔でチケットを用意してくださった。

 カメラは持っていない。タブレットのカメラ機能で何枚か撮ったその一枚。


 Facebookでは明朝ご案内の「あだち美術館」更新終わりました。今回は「みやた農園島暮らし」がテーマです。


 日曜日、下関に行く途中に萬代さんの玄関ギャラリーを撮りFacebookで玄関ギャラリーを3回にわけてご紹介した。撮って帰り際に「天に昇った龍」という「文」も「絵」も萬代信子の冊子を見せてくださった。その創作民話は「第二回山口県総合芸術文化祭」第26集「やまぐち創作文芸」という小冊子の全面で紹介されているコピーもあった。両方を拝借した。


 半世紀以上も昔々。萬代さんは義父から地元に伝わる民話を聞いた。干ばつにあえぐ農民たちが雨乞いの神事をして見事に雨が降ったという物語。


 私も半世紀前、同じようなことをやった。

 秋芳洞の入り口に「及遺灰像(ゆいかいぞう)」が祀られていると雑誌で知った。興味半分で見に行ったらあった。人骨を砕き、その粉をかためて仏像にしたという寿円禅師様だった。その足で近くの禅寺を訪れ話を聞かせてもらい「寿円禅師物語」という小冊にした。それは金光教の教会で子供たちが脚本に変えて劇にして披露してくれた。


 秋芳洞の地域は何年も大盛干ばつに見舞われ餓死する多くの人々がでた。寿円禅師様が洞内奥深くにこもり、日をきって捨て身の祈願された。その満願の日に田畑を潤す雨があった。禅師様の亡骸を運びだし遺徳を讃えて像にした。いまもある。


 下関王喜の神田(こうだ)さんから地域で編纂された分厚い資料を読ませてもらった。埴生から小月にかけての広大な干拓は地元の悲願だった。けれども堤防が崩れる。とうとうその場所に人柱を立てて龍神様に祈祷したというくだりがあった。


 松江城近くの橋も地盤が弱く、ついに人柱で祈願したという話を耳にしたことがある。


 森羅万象、人柱は別かもわからないが人々の生活に神様があった。嬉しいとき、困ったとき、将来の願望も祈りに凝らした。

 私は、そっちの世界で生きていきたい。


 「囲炉裏の部屋」は「日記」「掲示板」「あだち美術館」などが部屋の内容。今年から「人生の車窓」という表示もある。

 昨年、古希をむかえた私が子供3人に残した私の足跡をダウンロードできるように加工して載せている。読んでくださった多くの方からお手紙やメール、または直接に読後の感想をたくさん頂戴した。きょうは金光教で信心の大先輩、児島さんから「読みました」と読後感が丁寧に届いた。私は子供に伝えるために本音で書いた。それに児島さんも本音で感想を寄せてくださった。嬉しかった。