土曜日のご来光はいつも萩市

今朝7時「道の駅さんさん三見」から日本海。


長女(照美さん)夫婦は結婚して岡山県金光町の金光教本部(ご霊地)で暮らしていた。

主人は金光教学院という教師養成所で一年修行し教師になっていた。

霊地では金光教教学研究所でご用(勤務)をしていた。教師になったからにはどこかに布教に出たい願いを抱いていた。


金光教を知る人が一人もいない屋久島に京都から青年教師が開拓布教に赴いた。出発の日、大勢のみなさんに見送られ出発のとき、いただいた餞別をすべて出身の教会にお供えして屋久島に向かった。


その3年ぐらいあと人間より猿と鹿のほうが多い屋久島をどうして布教の地に選んだのか知りたくて屋久島に行った。


小屋を借りて生活。飯盒で飯を炊く生活をしており不審者として警察から調べられたこともあった。

数々、布教が前に進む信心の話を夜を徹して聴かせていただいた。ご神前、岩川先生が座られる畳が汗でくちていた。

屋久島布教は「ひびけ屋久島信心太鼓」と題して何かに寄稿した。


20年前、後継者がない高齢の女性教師が後継者を望んでおられる。その教会に後継者として布教されてはどうかと長女夫婦に打診があった。


太秦教会に長女夫婦は後継として赴任した。映画産業が黄金時代の太秦とはちがい斜陽の街並みの一角に教会はある。

教会運営の財は「お供え」だけ。春と秋の大祭でもご高齢の信者さんがパラパラとお参りされる。


そのなかで90歳をむかえる女性教師と大学生になった長女と来年から高校の次女に中学生になる長男。3人あわせて6人が生活をしている。

今月のはじめ90歳教師が体調を崩した。いつ葬儀になるかわからないが「この屋根の下で最後をむかえてもらおう」と照美さん夫婦と家族で決めた。


言ってみれば他人。末期の高齢者を受け入れてもらえる術は高齢者施設で働いている照美さんは知っている。そのうえで「ここで」と決めた我が娘家族を誇らしく思っている。

まだ自宅介護は続いている。