よしの店主に疑問をほぐしてもらえた

木曜日の下関。助手席足元まで立体的に荷物を積み込みタイヤは少し平らになるほどの重量で農園をスタートする。


けれども会社や商店など祭日のお休みが多く今朝の積み込みは楽に終えた。


6時過ぎ、清末のレストラン卯にお届け。オーナーシェフの金刺さんが庭の手入れをされていた。私よりひとまわり若い「卯年」20年以上前は下関や宇部の街をネオン焼けするぐらいワイワイやった。その仲間だった。


今朝の会話は健康だった。


徳川幕府時代、バチカンの教皇に弾圧の窮状を伝える書状が届いていた先日のニュース。私の疑問はその書状を誰が、どんなルートで鎖国の日本からバチカンまで届けることができたかが大きな疑問符になっていた。


それを解決してくれる人は美祢市のうどん店「よしの」の店主しか思いあたらない。

きょう木曜日は「よしの」の配達がある。午後2時に「完売」の札が掛かっている店に入り「教えてほしい」ときりだした。


戸惑うことなく書状がバチカンまで届いた推論をわかりやすく解いてくれた。


当時の鎖国は抜け道がたくさんあり、北海道から沖縄まで交易した北前船。その積み荷を海外にながして幕府は富を得ていた。その拠点は「出島」の前は「平戸」だった。

つまり、出島もしくは平戸経由で書状が海を渡った。その船籍はポルトガルだと「よしの」は深読み。書状の差出人のなかに京都の豪商があったとニュースで報じていたから、豪商と交易の線がクッキリとした。


数年前、家内と平戸の宿で泊まった。キリスト教の教会や平戸城に大きなお寺や神社がこの平戸にはあった。さらに驚いたのは吉田松蔭先生が約2ヶ月滞在されたという「碑」が建っていた。

松蔭先生は、私のように魚と酒をもとめての平戸ではなく、文献や外国人から学ぶための平戸であったことがわかった。


写真は今朝の関門海峡夜明け。

木曜日がお休みだったお得意さまには明日の金曜日がお届けになる。


今夜はしっかり熟睡で疲れをリセット。