母7年の命日

母は。7年前の深夜お国替えをした。


シーサイド病院は周防灘がぐるりと見渡せる絶景の場所に建っている。けれども四国や国東半島を眺める患者やその家族はいない。


朝8時、母の具合を確かめに行った。数日前から意識はない状態でそのときを待っていた。ナースセンターの真ん前の部屋に移されドアは解放。命が波形でセンターのモニターに出ていた。

「どうですか」と看護婦さんに聞くこともなく、母の手を握って部屋を出た。

農園に戻り家内と長男に「たぶんきょうになる」と伝えた。


岡本拓也さん順子さん夫妻の「ガッツ体操教室」の体育館が朴の森に完成した。その御披露目のお祝いが午後から賑やかにはじまった。

母のことは忘れてよう飲んだ。お開きのあと家内が迎えに来てくれた。農園でシャワーをつかい家内と缶ビールを飲んで体操教室の話をした。さんざん酔って夢の中。家内の携帯電話が着信した。


すぐに事情はわかった。服を着ながら「まだ酔っているから運転頼む」と。家内も数時間前にビールを飲んでいる。農園に来てくれるタクシーはない。


「走れ」「飛ばせ」と家内の運転に鞭をあてながら病院の駐車場に着いてエンジンを止めたとき長男から「いま」と電話を受けた。


葬儀会場とは事前に打ち合わせはしていた。深夜、病室に集まった長男と次女の家族全員を帰らせて母を見送ることがはじまった。


私を育てあげる決心をかためて昭和26年に母はシングルマザーになった。母とどこかに遊びに行って楽しかった思い出はない。

けれども母は私を育てる人生をおくったことは間違いない。


淳貴君のポストカードは太秦教会のご霊殿にお供えされている。秋には「人生の車窓」をお供えに太秦参拝と思っている。