充実した一日になった

5時46分。農園神棚に26年前、神戸兵庫区の浜山小学校避難所で19日から4月末までお手伝いをした。その体験からも私は人生のハンドルを切るきっかけになった。

そのことをお礼のかしわ手にこめた。


母の兄妹一番したは「潔」長女で小学生の母はおんぶをしてこもりしたと昔ばなしをしたことがある。その潔さんは養子に出され姓が足立から中村になった。

「寅さん」を地でいくような潔さん「あねさん」と母と二人暮らしの家をたずねてきて数日居候。おじさんが帰ったあとから酒屋が角打ちの請求にきていた。


北海道から九州までの炭鉱を渡り歩いた武勇伝を何度も聞かされた。背中に大きな傷があるのはビンで刺された。手の指がひとつ欠損(わたしも)は借金返済でトロッコの車輪に潰して労災保険。ヒロポンで警察沙汰も母が嘆いていた。


埴生の炭鉱で恩人の先輩が事故死。4人の子供をかかえて路頭に迷う家の同居人になった。

炭鉱はまもなく閉山して福岡市に転居「ばあさん」と呼んでいた女(ひと)は12歳歳上。4人の子供を育てあげ結婚式まであげた潔おじさん。

最後の末娘が披露宴で、それまては「おじさん」だったが「おとうさん」とお礼の言葉を言うたと涙をながした。


潔さんは神戸でさいごをむかえた。そのご遺骨はどうなるのかと経緯を見まもっていた「うちの墓におさまってもらいます」と子供から言われて納骨に立ち会った。その場所は美東町長登。


6~7年前なるのか。加奈ちゃんが自宅でパン教室をやっていたとき吉岡享子さんとご縁ができた「たまごを届けて」彼女は萩市から島根県益田市のあいだ阿武町の住人。標高400mで女ひとり百姓。

そこまで配達は無理だったが彼女が指定する「置き場」はなぜか転々と変わった。ご主人長患いで病院をかわるその都合だった。ご逝去された。


先日の菊川画廊探訪に彼女は手をあげてお嬢さんとお孫さんを伴ってこられた。短い立ち話で私のスイッチがON。

彼女が生産する「ほんもの」のお米に野菜、こだわりのお味噌などの販売お手伝い。加奈ちゃんと「吉岡さんプロジェクト」を打ち合わせた。


⏹️写真は5年ぐらい前の吉岡さんと加奈ちゃん二男「慶ちゃん」加奈ちゃんFacebook投稿。


明倫学舎レストラン「萩暦」でランチをしながら吉岡ワールドに90分耳をかたむけた。


彼女の発酵食品やお米などを理解して買ってもらえる人をひろげることをボツボツやりはじめたい。明日の9時、きょうは同席したかった加奈ちゃん(野球の試合)とお店で作戦会議。


その萩市に行く前に潔さんのお墓さがしをした。長登の道路から右側の墓地。その記憶しかない。

見つけた。けれども墓石の名前は3基。そのお名前を読もうとしたけれど汚れなどで読めなかった。

名前が同じお墓3ヶ所に合掌して潔さんに想いを馳せた。


萩市もゆっくり歩くことができた。寒かった。