上田さんと旧交をあたためた

写真は富士通日本語ワードプロセッサ初代「オアシス100」議会会議録調製を仕事として自宅の庭に小さな勉強部屋を建て(事務机ひとつしか入らない)た。それが㈱ぎじろくセンター(資本金50万円)私が社長で家内が社員。

 

議場でオープンリール録音機で録音された(議場にマイクロフォン一本)聞きとり難いテープ起こしを家内がガチャガチャ巻き戻ししながら膨大な下書き文字にする。

それを議会事務局が朱筆で加筆訂正をする。その校正済み原稿を浄書。それは専用用紙にカーボン紙をはさみ二枚複写(会議録正本は2部保存が義務)家内はボールペンで浄書。ところが写し間違いが必ずある。とくに疲れて集中力が切れた後半はその連続。「1字削除2字挿入」などと添え書きして足立の印判を押す。

 

東芝が1文字削除して2字挿入したら文末まで文字を押してくれる日本語ワードプロセッサJW10を日本で初めて発売した。博多のショールームに見に行ったら650万円。

それから半年あとに富士通がオアシス100を出した。週刊紙に資料請求ハガキがあり投函した。

しばらくして戦車のような大男がやってきた。それが富士通計算機で宇部市の住民情報(税関・選挙人名簿・戸籍など)を受託していた宇部電子計算センター。その営業部長の上田さんだった。あとからわかったことは松村御大と萩市の中学生同窓生。

 

リースで1台購入した。たぶん山口県で最初のオアシスユーザーだった。

以後、上田さんからワープロはすべてお世話になった。会社はワープロの進化とともに大きくなり山口県内、県議会もふくめてすべて契約。九州全域に営業をした宮崎県もほぼすべての自治体と契約。私が辞めるときの契約自治体数は240市町村ぐらいになっていた。

上田部長が最新情報を親身に提供してくださった。ワープロソフトのバグが発生したときは富士通本社の開発担当を呼んで手直しもしてくれた。

 

その上田さんから「喪中につき」葉書が届いた。

ご仏壇にお参りした。お母さんは6月に103歳(あと1ヶ月で104歳)の大往生。大正5年。私の母は8年。

 

上田さんの家はたくさんの物語がある。きょうは「上田開作」について集中質問をした。

尼子一族だったご先祖は毛利に敗れて防府市宮市に居を構えた。大道で酒の製造と販売権利を得て巨額の富をたくわえた。その私財を投じて秋穂の干拓をはじめた。いわば公共事業を個人がやった。いまでも「上田開作」とよばれている。その面積は50町(1町は10反)。萩焼の大道土も上田さんの山から出ている。

 

松村御大夫妻と上田さんのお宅に相当前に行った。御大ははじめての訪問「ふく」の大皿が風呂敷。玄関の挨拶を終えたら「上田!仏壇はどこか」と。仏間にとおされた御大は般若心経。

その仏壇に手をあわせた。大正生まれはたくさん苦労されたと頭をさげた。