満州の旅をしている

昨年の秋に撮った「海峡威風堂々」明日のホーム画面にも載せます。


「流れる星は生きている」を読み終えて満州の旅をしているような気分になっている。


作者の藤原ていさん家族が暮らした新京。たまごのお客さまのおばあさん、7歳のとき大事なラジオ放送があると家族で新京駅で聴いた玉音放送。


藤原ていさんは子供を連れて過酷な徒歩などでの引き揚げで38度線をこえられた。私だったら生きて地獄を歩くより死んで楽になる道を選択したと思う。足の裏にたくさんの小石が食い込んでいたので手術を受けた。


テレビ番組「がいろく(街頭録音)」でマイクをむけられた高齢の男性。満州の引き揚げは地獄でした。母は三才の弟に食べさせるものがなく乳を吸わせていましたが栄養失調で母と弟は餓死しました。

葫芦島(ころとう)にたどり着き帰還できました。


新京駅で玉音放送を聞いた少女家族は一年と半年新京から動くことができなかった。家財を売りながら命をつないだ。

あるとき駅に集まれと号令がかかり、新京駅から屋根のない貨車で数日かけて「ころ」に着いた。


葫芦島を検索したらヒットした。

ポツダム宣言に基づいて1946年から1948年まで150万人もの日本人が葫芦島に集められ帰国までの期間住宅と食料が与えられた。

私の憶測では、満州各地にとどまった人たちは葫芦島情報を得ており帰還指示まで順番待ちだった。

一方、混乱で情報が届かなかった在留邦人は「団」をつくって徒歩で韓国をめざした。


葫芦島から150万人もの日本人が大きな混乱もなく帰還を果たしたことは世界史的にも例をみないとネットの文献に結ばれていた。


戦死された兵隊には恩給が家族に支払われ。国策で満州におもむき辛酸をなめた人たちに国家はなにも報いていない。


今朝、ほんとうに久しぶりに夜露がおりていた。4時から焼却ゴミに火をつけることができた。


ネット検索して重枝さんにプリントアウトしてもらった。木曜日に葫芦島をおばあさんに手渡しができる。