沖縄戦の日に思うこと

沖縄戦が終わって75年。

本土復帰の直後から戦没された軍属や民間を問わずのご遺骨収集奉仕を金光教信徒会が旗揚げした。10数年のあいだ私はその奉仕活動にくわえてもらった。


糸満市摩文仁の山野にはたくさんのガマ(珊瑚礁が雨水でつくられた洞窟)それは大小も奥行きもさまざまにある。遺骨収集奉仕は遺族・宗教団体・政治団体など多くある。その皆さんはガマを見つけてご遺骨を探される。火炎放射器で真っ黒に焼かれたガマのご遺骨は集骨されている。

ガマではなく地表からご遺骨を見つけること。戦後の時間で埋もれたご遺骨はなにかのヒントを地表に遺しておられるように感じる。

それは、斬り込みに行くとき音をたてないために履いたと思われる地下足袋ゴム底であったり、自決手榴弾の不発や大腿骨のような大きな骨が密林の堆積した落ち葉のなかから「見つけてくれい」と声をあげていた。何度もそういう場所から万年筆・セルロイドの石鹸箱・印鑑・軍靴の裏の墨書き氏名などからご遺骨の身元判明ができた。


農園をはじめる前。最後の奉仕は摩文仁の山野で小さい完全一体のご遺骨と対面できた。遺品のセルロイド三角定規に刻まれた金城さち子。


沖縄戦を多くの方々が検証する。集団自決に軍が関与したかとか。

それよりも、いまだに山野にのこされているご遺骨を家族のもとにお返しすることが先決ではないだろうか。


以下はFacebook投稿の内容


農園生活12年。

防府北基地近くの薮が梅雨の豪雨で浸かりはじめたとき、近くのお宅に生後間もない子犬を運びはじめた。その数は7頭。軒下で子育てがはじまった。


昼間。人が来たら逃げるために立って授乳したこともある。夜は子どもと横になった。栄養不足で痩せ細った親子の姿に地域の人たち(高齢者)が立ち上がった。

子犬を撮って広範囲に飼い主さがし。可愛いのですぐにもらわれた。


残った母犬も誰かに飼ってほしいとペットクリニックに連れて行き避妊手術。費用はみなさんが負担された。

そのときフィラリア陽性反応。飼い主さがしは暗礁に乗り上げた。


そのクリニックに配達しており、痩せ細った野良犬を横目に見ていた。

飼い主が見つからないと残念だが保健所に引き渡すギリギリの期限になった。紆余曲折のなかで私が引き受けることにした。当時、農園には3頭の保護犬がいた。そのなかにフィラリア陽性を迎える躊躇はあった。


迎えることを決めて獣医に注意点を聞いた。心臓に寄生している虫の寿命は4~5年。強い薬で殺したら虫で血管が詰まってしまう。発症しないことを願いながら、これ以上の感染予防を毎月の投与でやりなさい。


11月の末にお世話になった地域のお宅に迎えに行った。大勢が集まってお別れの会になった。お世話してもらったお宅のご主人「ハッピー」と命名。子どもを引き受けた人たちも子犬とお見送り。

農園結納は家内にエプロン。私には新潟の酒一升。ドッグフードなど数々のものを頂戴して涙で見おくられた。

農園に着いた。結納品の下に封筒があった。


野良犬ではなく宇部市に登録してください。と4千円が入っていた。


たくさん物語を紡いだ愛犬。 

穏やかな毎日をすごしています。

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コメント: 2
  • #1

    神田英子 (火曜日, 23 6月 2020 22:20)

    ハッピーちゃんにはそんないきさつがあったのですね。心の優しい足立さん。敬服します。
    今、我が家では屋根の修理をお願いしていますが、その若い職人さんも木屋川の河川敷で今にも死にそうだったトイプードルを二頭いるにもかかわらず連れて帰り3頭飼っていると聞き感銘したものです。今日は良いお話ばかり聞けてとても嬉しかったです。

    私の伯父も沖縄で戦死したそうです。沖縄に行ったとき、摩文仁の丘の山口県の戦没者の中に名前をみつけたとき、妙に悲しくて、もう二度と沖縄にはいきたくないと思ったものです。まだ私が22~23歳の乙女だったころの思い出です。

  • #2

    あだち です (水曜日, 24 6月 2020 02:50)

    神田さんコメントありがとうございます。
    2時半、ぼつぼつ布団から出る時間になりました。枕元でハッピーは熟睡しています。
    今も昔も、沖縄から日本を見るとわかることがたくさんあるように思います。