母、5年の命日。

5年前、朴の森「元氣の里」体育館のオープンセレモニーが「ご縁の会」と銘打って催された。夕方、家内が酔った私を迎えに来てくれ農園に戻った。


数日前から母の容態がよくない。毎朝、宇部市丸尾のシーサイド病院に様子をうかがいに通っていた。

15日の朝、意識はなく心肺は自力で動いていることは計器の動きで理解できた。ナースステーションの目の前個室、ドアは開放されていた。

農園に戻り家内と長男に「きょうかもわからない」と伝えた。


岡本拓也さんご夫妻お祝いセレモニーでたくさんお酒をいただいた。9時ごろシャワーをすませてハイボール缶を飲んで寝た。

時間はわからないが家内の携帯電話の着信音が聞こえて飛び起きた。電話の内容は聞かなくてもわかるので着替えをはじめた。

もうじき日付けが変わる時刻。私は運転できない。家内に、いつもは「ゆっくり走れ」と言う私が「アクセルを踏んでくれ」と言った。


母の病室には私の子供たち家族が揃って(太秦は来られない)、母の臨終を見届けた直後に私夫婦は着いた。

安らかな母と対面して子供たち家族を「あとは、これからはじめるから」と帰らせた。母の契約葬儀店に電話をして遺体をお通夜の部屋に。翌日からの打ち合わせをしていたら夜が明けた。


お通夜(終祭)の夜は、私ひとり母の側で寝た。


ブログの写真。まだ元気なころ唐突に「農園に泊まりに行きたい」と言った。風呂あがり、なにを飲むかねと聞いたら「ワインはあるかね」とご所望。その笑顔をガラ携で撮った。


母は自分の葬儀をプロデュースするために農園に来た。

葬儀社に積み立てた証書をテーブルに置いて葬儀のイメージを語りはじめた。家内はメモをとった。


葬儀は、孫の照美さんがご用をしている金光教太秦教会長(照美の主人)にお願いしてほしい。

9人姉弟(母は長女)で元気な妹はひとり(兵庫県)で全員お国替えしている。妹には、葬儀が終わって1年ぐらいして知らせてくれ。

家族だけの見送りでよいから。そうそう棺は一番安い3万円にしてくれ。など上機嫌で語った。


大正8年生まれ。出雲の子だくさん貧乏な家の長女。松江市の商店に奉公に出され、そのお店が中国青島(ちんたお)に店を出す時母は奉公人として大陸に渡った。


⏹️ここからは私が調べたことに想像くわえて。母はその一切を話さなかった。


明治生まれ、山口県の陸軍獣医師と青島で出会った。獣医には妻があったが子供はなかった。

誰ひとりも縁者がいない宇部に母は来た。空襲で焼けた保健所の近くに住むことになった。獣医の自宅は遠くない。


戦後の混乱がのこる昭和26年に私がうまれた。認知した父親の名前などがわかった。そのころ獣医の家で待望の長男がうまれている。


母の人生は、女手ひとつで私を育てあげることになった。電話交換士国家試験をとり、山大工学部の交換士(国家公務員)になったが、電話が自動交換になりリストラ「どんな仕事もやりますから働かせてください」と用務員。

モンペ姿で草刈り便所掃除に玉の汗を流している母が働く姿を何度も見た。


職員住宅は官舎。教授の官舎と職員官舎は雲泥のちがいがあった。私の家は5世帯で風呂と便所共有だった。

小学校から戻って風呂当番だったら五右衛門風呂の水を抜いて石鹸をつけた雑巾でみがく。

湯をわかす石炭をくべるまでの薪を使うやり方も覚えた。


テレビはを買う余裕はなかった。テレビは学生食堂の後ろで見た力道山にあこがれた。

ある日の夕方、友だちの女の子(父親は大学教授)の家にあがりこんでテレビを見ていた。友だちが弾くピアノがやかましいので「テレビが聞こえん!」と言うたとき父親が激怒した「帰れ!この貧乏人の子が」と。


あの場面で私の背骨はできた。

自分の努力で変えられない運命、貧乏や身体のこと国籍などを言うてはならない。


その背骨が多くの人とご縁を強くして今の私がある。


私を育てあげるための人生を96歳まで生きた母。サダ子の5年の命日。

太秦のご霊殿と墓前にお参りは秋になった。

思い出せば母は寄り添ってくれる実感がいつもしている。

今夜は母と盃を交わして寝よう。