飛ぶ教室はおもしろい

高橋源一郎の「飛ぶ教室」昨夜の放送(60分)を、今朝の配達中に聞き逃しサービスで3回聴いた。


「TED」という無料動画サイトは、世界で著名な方の講演を配信していることを知った。日本語もよくわからないが、検索したら日本語字幕があった。これなら学べる。


指揮者でベンジャミン・ザンダーという方の講演は、クラック音楽が理解できる内容として有名らしい。

その講演を源一郎先生が語ってくれた。そして、その終わりの解説に心をうたれた。


ユダヤ人の姉と8歳の弟は貨車でアウシュヴィッツ収容所に着いた。弟が「靴がなくなった」と素足だった。「どうして自分のことができないのか」と弟を叱った。

その言葉が弟への最後の言葉になった。


採点カラオケで100点を3回出したことが自慢の美容師。糸賀社長ご紹介で配達をしていた。今年のある水曜日の夕方、糸賀社長から「⚪⚪が交通事故で死んだ」と突然の訃報電話。

実は、月曜日(美容室定休日)に彼はドライブに行った。その途中で雑談の電話が配達の運転中にかかった。とても煩わしく思い、彼の話を「また、こちらから電話する」と切った。そのあと電話はしなかった。

素っ気ない私の態度でお別れになった。それが、まだ悔やまれてしかたがない。

言葉は大切にしなければと思った。


読み解かれた本は「オメラスから歩き出す人たち」短編ではあるけれど(11ページと)半分ちかく朗読された。

平和で人々が楽しく生活できる町。そのなかに、1ヶ所だけ狭い牢獄のような場所があり、一日少しの食べ物を与えられ裸で排泄物の上に座っている少年。町中の人々はそのことを知っている。

出してやり、腹一杯食べさせて自由にさせたらいいのにと思っても、それは決まりでできない。それをすると、一人を助けると町中の人が不幸になる仕組みがあった。


そのありさまを見て嘔吐する人もいた。けれども、この少年は外に出ても馴染めず不幸になるだろう、ここがよいのではないかと納得する。

けれども納得できない人は、ある日この町を黙って去っていく。


高橋先生は、去っていく人を読者ではなかろうかと問いをたてた。


発展途上の国で、子供や労働者が危険や低賃金で働かせられた商品が、幸せな私たちの身の回りにある。それに気がついた人は「あの品物は買わないほうがよい」などと声をあげる。

けれども、売れなくなると子供や労働者の生活はもっと困窮する。つまり、そういう社会の仕組みが残念ながらある。どうしょうもない現実がある。


先週の講義で「文学には力がある、実学です」と話されたが、短編文学のなかに答えは出しにくいが、考えなければならない示唆がある。

そのような感想をもった。


次の授業は、高橋先生が「この人の話を聴きたい」と招かれた方が先生。高橋生徒になり質問をされる。

きょうの先生は、アーティストの末永幸歩さん。ピカソの作品が理解できるようになりますがテーマだった。


知らなかったことは、世界中の美術館にネットから入館して作品を楽しむことができることだった。

講義の展開でピカソ作品「アビニヨンの娘たち」を例えにあげられた。ラジオで聴講している人たちはネットで作品を観ながら学んだ。

立体的に描くのではなく、五感を働かせてつくられたピカソ作品という意味が少し理解できた。腕の長さや太さがちかってもよいのである。


長女の照美さんが金光教太秦教会でご用に就いて、春と秋の大祭は欠かさず家内は台所のご用に通った。その春の大祭は教会家族だけでお仕えすることになった。

お供え物だけはいつもどおり宅配する。午後から家内は買い物に山口市内。

6月、母の5年祭を太秦でお仕えしていただくお願いをしていたが延期になった。


藤野先生たちがFacebookでつながっている山口市内の方とお友達家族10人が来園。さきほどまで農園を満喫して貝掘りに行かれた。