練炭アンカに当時を思い出した

6月、母の五年祭を金光教太秦教会でお仕えいただく。

生前の母が日常していたこと、そのなかでも嫌悪感までとは言わないが、床のゴミを見つけたら指に唾をつけてとる。箸で取りきれない魚の小骨を口に指を入れてとる。

それが嫌だった私が今やっている。


美祢市大嶺、日の丸燃料に配達した今朝「あっ!」と商品名が口をついた「品川アンカ」

日の丸燃料は美祢市が石炭景気にわいたころ「日の丸練炭」として全国ブランドだった。


品川アンカを母が買ってくれたはじめての夜。それまでの湯タンポより断然足元が温い。豆練炭が布団に火をつけないか心配もあった。朝までよく眠れた。

けれども、湯タンポの湯で洗面することができなかった。指先が凍るような水で顔を洗った。

品川アンカは廃業して今はマメタンアンカとよばれている。豆炭も商品も関心あるお方は私に問い合わせてください。マメタンコタツもありました。


美祢市。黒ダイヤとも呼ばれた石炭景気。とくに無煙炭は戦艦などの燃料として重宝(敵艦に煙で発見されにくい)された。豆炭や練炭も無煙炭。

その美祢市黄金時代には映画館が3館。パチンコは5店。ボーリング場もあった。

月曜日にお届けの方。その当時は炭鉱と中国自動車道路に宇部興産道路の特需景気で、営んでいた大衆食堂は500食以上が毎日売れた。酒も。


美祢市の山あい、老夫婦のお宅に配達。

半世紀前はバッチリの背広の爺ちゃん。見たこともないお洒落の婆ちゃんが部屋を右往左往。

親戚のお見舞いに行く。バス停までのタクシーも頼んだが財布が見当たらない。


厚狭の配達先、玄関のスケートボードに「ひなた」と書かれていた。奥さんにお嬢さんの名前ですねと言うと「長男です。太陽を反対にした陽太が漢字になります」と。

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    神田英子 (月曜日, 20 1月 2020 22:21)

    私も美祢の無煙炭時代の炭鉱がにぎわっていたころ、(今は刑務所ができていますが)児童遊園と言って幼稚園か保育園のような施設があり、そこへヤマハ音楽教室の講師として通っていました。懐かしいです。無煙炭は暖かかったです。そしておすしやさんも宝石やさんも繁盛してました。

  • #2

    あだち です (火曜日, 21 1月 2020 03:56)

    神田さんおはようございます。
    石油がない日本。石炭は貴重な資源だったのですね。美祢市・小野田市に宇部市など黒ダイヤ景気で賑わった時代がありました。しかし、宝石店まであったのですね。