ご縁ある多くの方々のおかげで生きてきた

Yellow Hat相談役 鍵山秀三郎先生。

ご縁は20数年前。当時、毎年2月に慶州ナザレ園訪問団を募って関釜フェーリで通い続けていた。はじめてお会いしたとき「何を一番本気でされていますか」と問われた「ナザレ園訪問です」とこたえると「そのきっかけは?」と聞かれた「慶州ナザレ園というビデオが私を動かしました」と言った「それは、私が制作したビデオです」

鳥肌がたつような場面だった。

 

当時あゆみはじめた「日本を美しくする会」鍵山先生が掃除実習や講演をされるとき「来られませんか」とお誘いがあった。そのなかでも特別印象深い会場は清水寺・伊勢神宮・サンパウロ。

この方についていきたいと決心した理由をふたつ。

ひとつは、わたしを「君」と呼ばれたことはない。つねに「さん」「様」だった。いまでも。

もうひとつは、自宅の母にわざわざご挨拶に立ち寄られ「お世話になっています」と頭をさげられたことをのちに母から聞いたこと。


昨年4月8日、岡本拓也さんと先生のご自宅に行った。お身体の調子がすぐれない。1時間の滞在でおいとました。その1時間で言い尽くせないお礼の言葉がある。


きょうは届いた年賀状をご披露させていただく。届く葉書の文面にはいつも「心の親戚」の4文字。どれだけわたしの励みになることか。


金光教太秦教会(長女 照美さんご用)に96歳でお国替えした母がお祭りされている。教会の奥城(金閣寺ちかく)に今村さん(故人になられて3回忌が今年)が趣味の陶芸で「お母さんに」と焼いてくださった骨壺。

6月14日に太秦教会で5年祭をお仕えしていただく。


宇部空襲のとき27歳。焦土の夜はどこに身を寄せたのか。33歳でシングルマザー。厚生館に私を預けて電話交換の国家試験をとった。山大工学部の交換。その後、電話交換は自動になりリストラされるとき、わたしを育てるために用務員になりもんぺで草刈りや掃除で私を育てあげた。


その母にしっかりお礼を申し上げる5年祭を支えることが今年の私の柱になる。


私はたくさんの人から支えられて生きている。