年の瀬から新年の配達計画づくり

5時半、萩市に向けて出るまでが慌ただしい。冷え込みはあったが雨は降っていない。氷点下2度の雲雀峠の連続カーブーをかけ下りた。


この峠、冬場は積雪や凍結で交通の難所。標高もあるけれど道路両側の山が高く日照時間が少ない、くわえていったん下りはじめたら下りきるまで道路脇に待避する場所がない。

大きなカーブのふたつ目は橋。下りカーブで橋の上となると事故多発地。

あえいで萩市から上ってきたトレーラーなど大型車両がスリップで立ち往生するのもこの橋の上。


静かな萩市内を走り終えたのが7時前。長門市野波瀬に向かうとき後ろの景色がオレンジ色に変わり始めた。車から降りて10分ほど14日の朝焼けを眺めた。


知覧に先月足を運ぶことができた。

並ぶ若者達の遺影に氏名や出身地、年齢などが添えられていた。その特攻時の階級が年齢にふさわしくないのは、戦死のあと国から贈られた階級と思っていたが、学徒出陣のエリート学生を航空兵にするため、航空兵に志願した者には特別な階級が与えられたことがわかった。

特攻ありき。その飛行機乗りを多く養成するために家族や同郷の人に自慢できるシステムが整えられた。

この残忍な計画を立案、実行した者たちはのうのうと戦後を生きたかもわからない。


宇部空襲のとき母が住んでいた港町の家は全焼。炎のなかを床波方面に逃げたことを聞いた。

今に思えば母は27歳。それからどこで衣食住をとったのだろうか。出雲出身の母に縁者は少なかったろう。その人たちも焼け出されたのではないだろうか。それを聞いておけばよかった。そして母33歳で私を出産した。


母子家庭。母は私を育てあげることだけに精一杯だったと思う。


96歳でお国替えして来年で5年。そのお祭りを仕えることが来年の大きな行事。


年末から年始にかけてのスポット注文や配達変更など。年の瀬になった。