ひとつ幕がおりた

久しぶり、5月の空になった。


昨夜11時すぎに携帯電話に訃報メールか届いていた。それを3時に読んだ。


母子家庭の母、私が中学に入ってすぐ首の骨を削り骨盤の骨を移植する手術を医大でうけ半年入院した。親戚がないので、私は子育ての経験がない老夫婦の家に預けられた。学校は上宇部中、そのお宅は丸尾なので井筒屋前でバスを乗り継いでの通学になった。

中学は二つの小学校混在でひとクラス50人編成。ひと学年は15組みまでのマンモス校だった。勉強は嫌いで悪い仲間はすぐに出来て学校にはたまに行った。夏休み前、となりのクラス担任が「おまえ、キャンプは好きか」と声をかけた。キャンプはしたことはなかったが「おお」ぐらいの返事をした記憶がある。


夏休みに入り呼び出されたのは金光教の教会。その教師は金光教の関係者で、子供たちの育成活動リーダーだった。

数十人の仲間とはじめてのキャンプは秋吉台。そこで大火傷をした。並べて火に掛けた飯盒のお湯とご飯の飯盒を間違えて、ご飯と思ってひっくり返したら熱湯だった。軍手をとらないまま水をかけて、先生がマツダキャロルのアクセルを踏んだ。

病院にむかう車のなかで自分の火傷をより「お金がかかる」入院の母にそれを言うことで気持ちが重かった。結局、治療費は払うことはなかった。そこは私には年が離れた兄貴や姉ちゃんが大勢おり居心地がよかった。


事情で教師は私が中学2年のとき辞職して、金光教の教師になった。約30年近く教会通いをした。私の人としての骨組みがそこでつくられたと思っている。

様々な出来事がお互いのあいだであり、私は20数年前に参拝の足をとめた。理由を聞かれるのも嫌で(口を開けば、育ててくれた恩人を責める言葉になる)金光教からも離れた。けれども長女の照美さんは金光教太秦教会でご用をするようになった。


「去るものは追わず」と私のことを周囲に話したことを知った。なぜ去ったのかはご本人が一番知っている「そのこと」を具体的に私は家内にも話したことはない。

数年前から施設入所されていることは知っていた「そのこと」のボタンをかけ直しにお見舞いに行こうと何度か思ったが足が向かなかったのは、会えば私が責める言葉を出してしまいそうと思ったこと。


今朝、先生の訃報をうけて責め言葉でお別れをしなかったことはさいわいだったと思った。

別れはいろいろなカタチでおきてくる。お世話にはなったので家内とお参りする。


『根気』


「世の中は、根気の前には頭を下げることを知っています。火花のあとには一瞬の記憶しか与えてくれません。だから、牛のよだれのように根気よくやりなさい」。夏目漱石が芥川龍之介に宛てた手紙の一節です。

 ほとんどの人が、やればすぐ成果につながることばかりに気をとられているから、心底からの信頼が得られないのだと思います。


(PHP研究所:鍵山秀三郎「一日一話」より引用)