どこまで見えたら ええのか

昨夜、京都の孫娘(高一)からメールが届いた。4泊6日の修学旅行はタイ。しかも民泊も体験できたと。写真、うしろの真ん中が美花ちゃん。


3年前、太宰府の国立博物館で南蛮屏風絵図が8K大画面で鑑賞できる企画があり足を運んだ。

出島に着いた南蛮人がゾウやトラなどを連れて異国情緒たっぷりファションでねり歩く様が描かれていた。作品の隅々までも画面に映し出された。見終わった私の感想は「あれほど詳細に観なくてもよかったのに」だった。


きょう山口市の配達先の会社。県立美術館の作品展示を長年請け負われている。社長がおられたので、巷で話題の8K・4本Kはどれだけ必要なのかとたずねた。

「なるほど!」と合点ができる説明をくださった。例えば江戸時代に描かれた作品を展示する場合。学芸員さんと打ち合わせることは。作品は照明のない部屋で描かれて、観る人たちのなかにはロウソクの灯りで楽しんだこともあったろうとおもいを馳せたら、むやみに作品を照らすより作家が描いたであろう明るさを考えるのです。それが見せ方になると思います。


児玉 清さんが亡くなられる半年前に白内障の手術をされた。術後のラジオで「たしかによく見える。髭反りの鏡にシワ・シミの現実を見たとき、手術はしなかったほうがよかった」と思ったと。


写真が長年の趣味。糸賀社長は「最近のカメラは実物よりきれいに撮る機能がありすぎる」とも言われた。


『才能の使い方』


 生きていくうえで、才能はほとんど関係ありません。もちろん、ないよりはあるほうがいいわけですが、あっても使わなければ意味がありません。

 問題は何に使うか、どういうときに発揮するか、にかかっています。

 悪いことや自分のエゴのためだけに使ったり、ただ自慢するくらいなら、むしろないほうがいいわけです。少しでも人が喜ぶことに使うことです。


(PHP研究所:鍵山秀三郎「一日一話」より引用)