きのう配達ミスをして美祢市に戻ったとき、うっかりミスをした自分と、時間の無駄をする悔しさ、早く戻って本を読みたかったことなどで気持ちが穏やかではなかった。
タヌキがあらわれて「失敗も無駄ではない。その失敗から楽しむ方法があるぞ、どうせなら違う道を走ってみんか」と囁いた。
美祢市から秋芳に向かう県道沿い。葉を落とした枝が神々しさをあらわしているような風景に出会った。タヌキが言うとおり。
樹の根本には苔むした祠がまつられていた。
昨日の「数楽の会」は、京都大学大学院生 時政和輝 特別講師をお招きして主に古典について拝聴した。
その2時間のなかで気持ちがスッキリした解説にであえた。それは短い言葉「我が身は父母の遺体なり」
3月、母を祭って下さっている金光教太秦教会で春の霊祭が仕えられる。仁和寺近くの霊園の教会奥城にお骨もおさまっている。
祭典は曜日ではなく、日にちで行われ今回は月曜日。凡人の私は日曜日に京都を往復して、教会では「月曜日の仕事がありますから」といいわけすればよいと思っていた。
けれども年末ぐらいから「それでお参りになるのか」と自問しはじめた。
母と二人の生活で、私を育てあげることが母の人生だった。農園で母に毎日手をあわせている。けれども月曜日ということぐらいで折れてしまう感謝しかないのか。日曜日に参ったら母は喜ばないとわかった。
日曜日に月曜日の配達を済ませて、月曜日にお参りする大切さがわかった。
さらに「我が身は父母の遺体なり」
私の身体は父母である。戸籍で私を認知した父親にあったことはない。けれども、この私の身体は父母である。
昨夜から何度も身体を撫でては「これが父と母なのか」と思っている。よい勉強をさせていただいた。
きょうは大寒。大寒タマゴのご注文が多く午前中は山口市内まで走りまわった。
『履物を揃える』
履物がきちんと揃えてあるだけで不思議と心が落ちつくものです。
私には子供が二人います。
子供にこれといった躾をした記憶はないのですが、物心ついたころから履物だけはキチンと揃えておりました。
いやなことや耐え難いことがあって帰宅したとき、玄関に小さな靴がちょこんと揃えてあるだけで、どれだけ救われたことかわかりません。
(PHP研究所:鍵山秀三郎「一日一話」より引用)
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