今村さん ありがとうございました

15年ぐらいお付き合いしてくださった今村さん。ご自宅にはいつも裏口から上がらせてもらっていた。1度だけ玄関からおじゃまをしたことがある。


昭和57年 東都大学野球秋季リーグ戦で専修大学が優勝を果たし胴上げの明治神宮野球場。スポーツ新聞が翌日の一面を飾った。それを掲載した新聞社が今村監督にお祝いの品にしてくれた。玄関に掲げてあった。


その晴れ舞台の写真が葬儀の斎場入り口に飾られた。今村監督らしいご葬儀が仕えられた。たくさんの生花、そのほとんどが各地の大学野球など。大学野球界で今でも慕われていることがよくわかった。


弔辞は当時のコーチだった。

先月の末にユニホーム姿の監督が選手たちを叱っている夢をみた。胸騒ぎがして何年かぶりに監督に電話をした。奥さまが「いま点滴中です」の言葉に驚いた。あとから監督と電話で話ができたが、あの力強かった監督の会話が弱々しかった。


専修大学野球部を明治神宮野球場で優勝させようと監督と誓いあった。斎場入り口の胴上げ写真。監督を落としてはならないので僕は尻を支えていました。

夢で叱っていた話を、今の監督(当時の選手)にきのう通夜で話したら、低迷している野球部の監督(僕を)を叱っていたのでしょう。今村監督の願いに応えなけらばならないと話した。

ノー原稿で無駄のない、参列者の胸をうつ弔辞だった。


仏の今村とも鬼の今村とも語られた遺影。

選手には、野球だけやっていては野球を去ったあと社会になじめないと勉強も教えた。あるとき卒業生の就職先を求めて夜遅くまで歩き回って合宿所に立ち寄ったら禁止されている麻雀を部員がやっていた。外に引きづり出してビンタとケツ バット「野球やる資格はない」と選手除名した。

翌朝、監督の自宅庭に頭をクリクリにまるめた昨夜の選手が集まり土下座して詫びた。


5年ぐらい前、韓国料理店で民族音楽と料理と酒を楽しむ会を催した。宴もたけなわのころスピーチを今村監督にお願いした。玉名の専修大学付属高校の思い出を語りはじめた。途中から嗚咽になった。在日韓国人の選手と心の交流だった。


毎年2月に「ふく」を楽しむ会をしている。最後は吉野さんの三三七拍子。その前に今村さんの相撲甚句。相撲で国体選手に選ばれたことがある。


雨の斎場から見送られる棺は、専修大学校歌に送られた。


『ゴミを拾う人は捨てない』


 タバコの吸殻を捨てたからといって、急に人生が悪くなるわけではありません。だから無神経に捨てる。その考え方が問題です。

 捨てる人は捨てる一方。捨てる人で拾う人はまずいません。反対に、拾う人は捨てません。この差は年月がたてばたつほど大きな差となって表れます。人生は、こうしたことの積み重ねですから、無視できません。


(PHP研究所:鍵山秀三郎「一日一話」より引用)