今村さんとお別れ

今年の2月 下関市で酒盛 相撲甚句をご披露
今年の2月 下関市で酒盛 相撲甚句をご披露

9時すぎ下関市内を配達中 今村さん(昭和18年お生まれ)昨夜ご逝去の知らせを受けた。配達を済ませとにかくご自宅に急いだ。

近親者10名ほど、それに僧侶で枕経の最中に裏口からあがった。焼香を済ませた場面で奥さまが「なにか思い出を披露してください」と私を指名された。

4月に萩市浜崎観光をご一緒して、その数日後の夕方、ご夫妻で農園に来られた「検査の結果は」と病名は告げられたが「末期」とは言われなかった。

その後、抗がん剤治療で2週間ほど入院された。退院されて激励に行ったら副作用の口内炎がひどく、食べられない毎日を過ごしておられ「胃ろう」でつかう流動食を飲んでおられた。

そのような場面でも奥さまに「運転は気をつけよ」など、自分のことより残していく妻が心配。梅干しの漬け方など事細かに教えたり、菜園で使う農機具の使い方まで教えておられた。


今村さんを「今村先輩」と慕うのは、私の長きにわたる恩人の上田さん。彼は東洋大学ラグビーで鍛え上げられた重戦車。専修大学野球監督を生きた今村さんには敬意しかない。

今月1日「朝8時に私は今村さんの激励に行きますが、ご一緒されませんか」と上田さんを誘っていた。彼はその日地域の用事があった。前夜、奥さまから「容体が悪くなった、ベットで寝たまま、会話もできないかもわからないが」と。来てほしくないのではなく「来て下さい」と私が受けとめた電話があった。

上田さんに電話で様子を伝えたら、私に任せますと言われるので「行きましょう」とお誘いした。


8時にふたりで今村家。食べたくない、食べられない今村さんがベッドで笑みをうかべられた。それが嬉しくて奥さまは動画撮影。今村さんから言葉は出なかったが最高の笑顔で応えてくださった。


枕経の席での思い出は、先月末に裏庭で椅子に座って監督か語った言葉。


選手が晴れ舞台のグラウンドに出るまえ。ええか、観客席は見なくてよい。見るのは風向き、太陽の位置、土の硬さそれだけ見たらよい。ボウルはひとつしかない!


その短い監督の言葉を披露するとき、言葉につまってしまった。私にとっても大切な人を失った。

専修大学のユニホームが装束。凛々しいお顔だった。


『他力本願』


 日本にもいろいろな災害が発生します。しかしその災害を、ただの災難にしてしまう人と、幸運の糧にする人がいます。

 災難にするのは「我慢できない人」、幸運にするのは「耐えられる人」です。

 他力本願で、政府の経済援助だけに頼るよりも、現実を受け止め、そういう状況に耐えられる体質を作っていくことが大切だと思います。


(PHP研究所:鍵山秀三郎「一日一話」より引用)