沖縄慰霊の日

3時に起きて萩市向けの準備をはじめた。6時前に農園を出る、それまでに私の朝ごはんも済ませて犬と猫の世話。部屋と台所などの掃除をするのでテレビを見る時間はないのが土曜日。


沖縄慰霊の日。1時前にライヴ放映された慰霊式典を見た。浦添中学の女子生徒の朗読は胸に響いた「過去が未来にならないように」は記憶に残った言葉。


復帰の翌年から戦没者遺骨収集奉仕に通った。15回以上は摩文仁の山野で収骨をした。

なぜ現在でも遺骨収集が終わらないかを私の体験から書いておこうと思う。

沖縄戦が始まり終るまでの約2ヶ月で、糸満市摩文仁では1平方メートルに6トンの艦砲射撃があった(鉄の暴風雨と呼ばれている)その不発弾が地表や地中にたくさん残っている。自衛隊不発弾処理班が300年かかっても処理できない数と聞いた。日本兵が自決用にも使った手榴弾はガマとよばれる洞窟にあれば生きている。地表にあっても火薬はセルロイドで包まれており危険。


毒蛇のハブが生息している。冬眠しないが20度ぐらいだとあまり活動しない。24度ちかくから活発になる。それが理由で収骨奉仕は2月に主におこなわれる。


沖縄独特の風葬という文化がある。亡骸を山野に数年放置したのちに家族が集めて泡盛などで浄めて墓におさめる。その遺骨と戦死されたご遺骨を見極めないと大きな問題になる。


収骨される方によっては頭蓋骨や大腿骨など主な骨だけ収集される場合があり、肋骨や指や歯などが散乱している場合がたくさんあった。


壕が崩れている場合がたくさんあり、掘り出せばたくさんの遺骨が埋まっている場合もあった。


私が見聞したことなので正確がどうかはわからないところがある。

声高らかに「平和」を唱える人もあり。黙って山野でご遺骨に向き合う多くの人もおられる。


『譲る限界』


 できるだけ譲る。私が心がけてきた信条の一つです。

 できるだけ譲るようにして生きてはきましたが、ある一線を越えたら一歩も譲らないようにしております。一歩も譲らないのは、私個人の利害からではありません。これを譲ったら、社員が幸せにならない。相手にもよくない。

 この二つが、譲らないときの私の判断基準です。

(PHP研究所:鍵山秀三郎「一日一話」より引用)