牧さんとの正月

3年前の7月(母の葬儀から1ヶ月後)に来てくれた牧さん。

きのう、近くの温泉に立ち寄り夕方着いた。高速道路の補修が仕事で主に九州から西日本一帯を現場として、10数名の男達をたばねて困難な仕事をこなしている。


私が神戸の避難所で運営を手伝いはじめて暫くして、マグロ船の船員をキャンセルして大型バイクで関東方面からきた。宮崎弁(私は理解できる)だったのと気が合うので親しくなった。避難所が解散されても我が家に突然あらわれた。娘たちはスキーに連れて行ってもらったりもした。松村御大一行14名を縄文杉に案内したときも彼は来た。けれども屋久島の海を泳ぎまわっていた。


前の仕事を辞めて農園生活になっても彼は泊まりに来た。上海で外食事業をはじめて失敗した前後は、中国人やレストランスタッフを伴い大勢で農園宴会もやった。

彼とのお付き合いで、彼の生き方に口出しをしたことは1度もない。会えば互いの近況を伝えあいながら酒を酌み交わす。


48歳の独身。正月料理も食べていないだろうと家内は料理でもてなした。年末にアメリカからキューバを経てブラジルの旅(レンタカー)の途中で現場で大きな事故が起きて従業員が怪我をした。その対処で急遽の帰国をして慌ただしい年末になった話を聞いた。

スマホの翻訳機能を駆使して世界中を歩き見聞を深めている。その彼ならではの体験談を夜遅くまで聞いた。例えはアウシュビッツ(2時間待ちでも無料開放。ドイツが運営資金で協力している?)彼のシャツに「8」の刺繍があった。それはアルファベットの8番目「H」つまりヒトラーの頭文字で、ここではご法度と知ったらしい。


銃社会のアメリカでは交通マナーが良いらしい。トラブルになれば銃を保持しているという前提があるかもわからないと言う。


正月料理の全部をたいらげて彼は寝た。朝は雑煮で餅3個とご飯に焼き魚などを食べて「また来ます」と農園を発った。


年末から年始の不規則な仕事と、2日に歩いた疲れが蓄積したのか右のアゴが腫れて痛みがあった。

10時に家内と湯田簡保の宿に向かった。11時の風呂の開門に間に合った。ゆったり1時間のお湯を楽しみ、農園でロング缶チューハイ経由で2時間の昼寝。起きたらアゴの腫れがとれていた。


明日からは、いつもの生活に戻れる。