豪雨の一日

午後2時。農園にかかる橋から厚東川の川下を撮った。18年の農園生活で、2度ほど水位が道まであがったことがあった。

農園の場所には60年前に数軒の農家があり、野菜とお茶で生計をたてていた。豪雨で橋は壊れ土砂が畑に流れ込み、離農されこの地を去られた。


今月2日、毎日新聞社説の真下に「悼む」のコーナーに、8月2日死去された 磯野恭子(やすこ)さん、83歳が載っていた。

カネミ油症・原爆小頭症・中国残留孤児など社会問題にカメラとマイクを持って立ち向かわれた、元山口放送ディレクター。


私の地元、宇部市床波で昭和17年2月におきた海底炭坑水没事故。1度に184名もの人が亡くなった大惨事の記録はなぜか少なかった。

20数年前、当時の炭鉱住宅があり老夫婦だけが生活されていた。電気工だったHのじいちゃんは、海底炭坑中央部の出水現場に朝の5時に連絡用の電話をつけてあがった。1時間後に海底、つまり坑内の天井に穴があき水没した。半年ぐらい じいちゃんの家に通い、事故のあった炭鉱の歴史や規模など聞き取り地図も完成させた。


その頃、磯野さんがHさんを探しあてて訪ねてきた。そこでわたしとは初対面。約130名の外国人労働者が亡くなっており、当時「強制連行」があったと声をあげた日本人がおり(その後、本人が間違いと訂正)磯野さんは、その視点で取材をスタートされた。

私の調べた資料は全部提供した。その調査の過程を夕方の地元テレビで短く放映された。情報提供の意図だったか?その番組を偶然筑豊で見た在日韓国人のAさん。当時15歳で募集に応じて日本に来た少年はHさんに大変世話になった。すぐに山口放送に電話してHさんの電話番号を聞いた。そのニュースが磯野さんから私に入り、足が不自由なHさんを私が運転して筑豊に行く段取りをした。Aさんは心臓が悪く外出は無理。

HさんとAさんの感動の再会はカメラがまわった。そこから韓国の人たちの名前と出身地がわかりはじめ、磯野さんは遺族を訪ねて何度も韓国を訪れた。


その記録がドキュメント映画「海鳴りのうた」となり、その年のドキュメント最高の賞をいただかれた。

各地から講演依頼があり、運転手で奈古高校にお供したこともあった。物事をみる視点をたくさん教えていただきました。ありがとうございました。


今朝は下関市に集金があった。帰りに風呂を楽しもうと支度をしていたが雨足が強くやめた。