おかげ の正体は

ばんだい さんが作ってくださった花束を、新居に移られた若いご夫婦にお届けした。10個のたまごに添えたサプライズにたいへん喜んでいただいた。


先日の木曜日。美祢市のコンビニでパンとお茶を買い、農園最寄りのバス停で座る「みゆき」ちゃんに手渡そうと山越えを急いだ。峠を下るころから突然の豪雨になった。

このとき「みゆき」ちゃんは農園を出て、橋を渡り終えたころ豪雨に遭遇したと思われる。橋からいちばん近い空き家の軒下に避難した。


バス停に彼女がいないので、農園からバス停までの一本道を通った。軒下で空を見上げている彼女を見つけた。コンビニの袋と傘を彼女の両手に渡した、その少しの小走りでも相当私は濡れた。聴覚と言葉が不自由だが笑顔で「ありがとう」を受け止めた。


木曜日の、私と彼女の様々なタイミングがピタリと合い、あの雨のなかほとんど濡れずに彼女はバス停に向かった。それを偶然とか都合よく、ぐらいの思いかたでよいのだろうかと気になっている。

あの日の夜は、私が手をあわせる神様と母の御霊様、西君の神様にもお礼を申し上げた。


私にとって都合よくコトが運んだのが「おかげ」ならば、不都合なときは「おかげ」ではないのか。

すぐに屁理屈をこねる私の思い方に気がついた。気軽につかう「おかげ」を考えたときベースは、彼女も私も炎天下に元気で働けた健康がある。その土台こそが「おかげ」であり、雨に遇うとか遇わないことは枝葉のことと思えてきた。


最近、モノをさがす時間が多くなった。今朝は携帯電話を農園に忘れてスタート。萩市で連絡する用事を思いだし、車のなかを目を皿のようにしてさがした。

ショルダーがあるので、明日からそのなかにきまった小物を入れて車に乗るようにクセをつけたい。