母の思いで

亡くなる半年前、サービスつき高齢者住宅で約18カ月おせわになった。家内が「農園ご膳」と称した夕食を度々つくってくれ冷めないように40分の道のりを運んだ。


14日の朝、母に会いに介護病棟に行った。ナース詰所の前の個室でドアは開放され、様子が見られるようになっていた。数日前から意識がはっきりしていなかったが、この日はなんの反応もなかった。

農園に戻り「たぶん、きょうだろう」と家内と正志に伝えた。午後から、ガッツ体操教室の体育館お披露目行事に出席。夕方にはたくさん酒を飲んだ。家内が迎えに来てくれて酔って農園。家内はビールを飲んだ。


家内の電話が着信したのは日付がかわった深夜。飛び起きて着替えをしながら、家内の電話対応を聞いていた。病院から危篤の連絡が自宅にはいり、正志がそれを伝えてくれた。家内は酒気帯びかもわからないが走るしかない。途中私はコンビニで酒を薄めるお茶を買った。病院に着いたとき正志から「亡くなりました」と連絡を受けた。

病室には、正志家族と真砂恵家族の全員が揃っていた。母の穏やかな顔つきに「楽になったね」と声をかけた。家族のお別れをさせて全員帰らせた。


夜明けまで、母を斎場に連れて行き、通夜と葬儀の手配を葬儀社と太秦教会と調整をした。夜があけて配達の変更などが急を要した。犬が3頭、腹をすかせているので農園に戻った。喪主として長い2日がはじまった。


今でも悔いが残る。病院から斎場のあいだに自宅があった。あれほど「家に帰りたい」と懇願した母を、寄り道して短い間でも母の部屋に寝かせる配慮ができなかったのか。


家族全員で、遺言どうりのお葬儀を仕えることができた。

遺骨は太秦教会の墓に納めていただいた。金閣寺ちかく「絹かけの道」ちかくの墓地。


母を思いだしながら木曜日を終えた。