礒村先生 思い出

下関市立美術館の片隅に、田上菊舎の句碑がある。芭蕉や山頭火に菊舎と、菊舎が歩いた証のワラジが添えられている。


掃除に学ぶ会を宇部で立ち上げる同志数人集まった。けれども、いくつかの市内の学校を訪れて主旨を伝えても、トイレを使ってよいと理解を示す学校はなかった。便器を磨いて心を磨くなど当時は怪しまれた。

礒村先生にそれを話題にした「わかった、これから行こう」と私の車に乗り込み「東岐波小学校」と目的地を告げた。

礒村先生は、阿知須小学校をふりだしに小学校教諭を勤めあげた。東岐波小学校の校長には先輩としてズバズバ進言、その圧力に「わかりました」と縦に首を校長がふり、第1回の宇部掃除に学ぶ会は、菊川・高山・岡成・足立夫婦の5名でスタートができた。


イデオロギー的な話題は先生はされなかった。

けれども、太平洋戦争で戦争未亡人となった地元の婦人、全員のもとを訪問して、戦後の苦労を聞き書きされている。戦死の通知が届き、縁者のすすめで主人の兄弟と再婚、戦後数年して主人が帰還してからの騒動など書き留めておられる。

唯一「足立くん。歴史は、その時代を生きた庶民が何を食べて、どんな生活力をしていたか。それも大切な歴史」

と話された場面があった。

まな娘を失った日。夜中に岐波の海岸を歩いた話も聞いた。


語り尽くせぬエピソード。わたしの教師だった。


土曜日。6時から農園スタート。萩市・長門市・美祢市の配達を終えた。