歴史の真実は見えにくい

月曜日の9時ごろは美祢市「幸嶺園」久しぶりに徳永園長とお会いできた。互いの近況を短時間で伝えあえるのは園長の頭の回転がよい「わかった!」で次の話題。下関の松村御大の会話テンポと似ている。わたしは尊敬の言葉として「女傑」と本人にも言う。このホームページをお知らせしておいた。


6日の上映会の内容を頭のなかで整理している。150分の映像は、中国共産党の残忍さを天安門事件の映像で、装甲車につぶされた学生。文化大革命で撃ち殺される映像。チベットでレンガで頭を漢人から割られるチベット人などの列挙。ようやく整理できるようになった。

そのひとつ。満州国建設で日本は五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人)の新天地をめざしたと映像は力説した。満州に建設したインフラの姿をはじめて観た。日本が国力をあげて夢に向かったかのようなストーリー。


福岡県矢部村。百姓の三男のK三男さんは、狭い耕作地は長男が継ぐから生きる糧を「満蒙開拓団」に求めた。現地では、広い耕作地を与えられ大豆など生産した。その耕作地は、もともと朝鮮族や蒙古族が開拓したものを、タダ同然の金で日本の所有になった。隣の家までは数キロもあり、お産は僕がやりました。その子供は終戦の混乱のなか現地で死なせた。


農園に「奇跡の生還」の冊子は、小野田市のNさん自費出版がある。少年義勇隊に志願して満州に渡り、終戦後の45日間、帰国船の日本丸にたどり着くまでの苦労を遺されている。満州国の発展と五族協和の旗印が本物ならば、失われずに済んだ命だったのではないか。


映画で、日本がほんとうに民族の壁をこえて新天地を築こうとしたのかは、終戦後、異国から命からがら逃避行して帰国できた人の口から聞きたい。


母は戦中に青島生活をした。支那語もできた。その母は支那人を見下げる言葉をつかった。歴史はわかりにくい。