亡き母 誕生日

2年前の6月にお国替えした母は、大正8年の2月16日に、島根県斐川町で8人兄弟の長女として生まれた。

それぐらいしか母は語らなかった。わたしの父親、宇部に来た理由、中国語はどこで覚えたのか。かたくなに口を閉じていたが、病院生活も後半のころ耳元で聞いたら「それは」と応じることもありパズルのように、母とわたしの人生を描くことができた。

遺品のなかで驚いたことは、どこで学んだのか大学ノートにたくさんの俳句。宇部市の文化祭で表彰されたり、句会にのメンバーでもあった。家族を祈りながら見つめていた17文字に知らなかった母を知った。もう俳句をやめるという最後は80歳の後半、逢いたい人があった。


宇部が空襲のとき母は26歳。港の近くに自宅があったらしい。自宅は焼けたが母は無事で33歳でわたしを産んだ。


木曜日の配達を済ませ酒屋に立ち寄り、母の好物 日本酒を買った。


母は反面教師のところもあった。けれども時間のフィルターが、笑顔の母だけをのこしてくれた。今夜は母と日本酒。