おかげ話し の落とし穴

農園には出ないが、サルの群れが近くの地域に出没する。ヤギを用心棒にした家にはサルは近寄らなくなったらしい。


縁があり、中学生の頃から金光教に足を運ぶようになった。教師や信者さんから、神様のおかげ話をたくさん聞いた。今思うと、その話が信心を遠回りさせたように思う。

例えば、教会でお祓いや祈念を受けて戦地に赴き、奇跡的な体験をして帰還できた。そのような話を聞いて信仰の力はあるのだと思うようになった。


つまり、我が身に都合のよいことがおきることが神様のおかげと解釈するようになった。不都合があると、それは信心が足りないと反省するのが信心生活と勘違いしていた。


陸軍中野学校を卒業して、諜報任務にルバング島に赴いた小野田寛郎少尉は、戦後約30年任務を解かれず遂行されて帰還された。その会見で、神仏は願うものではなく、ただ敬うものです。と毎日お日様に手を合わされた心境を語られた場面を覚えている。


今回の台風。プサンやチェジュ島の被害をニュースで目にした。山口県にあれほどの被害がないのは神仏の おかげ ではなく、森羅万象のなかの偶然(たまたま)と理解したほうが神仏に近づける気がする。


自分の都合で神仏を敬うと間違う。