夕立注意情報 不発

長門市仙崎港の片隅に立つ看板と、その簡単な説明文だけが、この場所を物語る。

終戦をむかえ舞鶴・博多・仙崎の各港が引揚港に指定された。翌9月12日に引揚船 興安丸が入港。第一次引揚者7000人が上陸。長門市内の寺や学校が救護と宿泊所に充てられた。バラック仮設住宅も建設されたが収容できず。民家も協力した。

昭和21年末に引揚港の役目を終えるまでに上陸した人は41万人。この港から朝鮮に帰った人々は約34万人。


現在も、着の身着のままで命がけの旅をする難民。同じような状況だったと想像する。K・三男さんは、福岡県矢部村で三男だった。狭い田畑と屋敷は長男が継ぐ。満蒙開拓団の募集を農業会( 現JA  ) が行い単身で満州に渡った。黒竜江省牡丹江に近い開拓村が割り当てられた。

余談になるが、開拓村はそれまで営農していた中国・朝鮮人に僅かな金を渡して追い出した。

内地から妻になるため満州に来た女性と集団見合いして所帯を持った。隣の家とは10キロメートルぐらい離れており、出産も夫婦でやった。


子供が何人だったかは言われなかった。引き揚げのとき餓死したとは言われた。夫婦が帰国を果たすまで地獄を通りましたと。


私に龍笛の指導をしてくださった温和な方が満州を話したのは一度だけ。


午後から、宇部市の防災メールが夕立豪雨の注意を何度も促した。空は暗くなり恵みの雨を期待した。郵便配達のバイクも雨具のいでたち。けれども恵みはなかった。


囲炉裏ヨーロッパ特派員 牧さんの顔を見てみたい方は7月2日をご覧ください。