沖縄慰霊の日

沖縄戦戦没者の遺骨収集奉仕は、本土復帰直後から長年通った。糸満市摩文仁で「金城サチコ」と刻まれたセルロイドの三角定規とともに、子供らしきご遺骨を地中から収骨させていただき、それを区切りに奉仕はやめた。

その発見の日、足下には海とサンゴ礁が切り立つ斜面で「足立さんですか?」としげみから声をかけられた。なんと会議録(わたしの本業)でお世話になっている下松市議会事務局長だった。

局長のお父さんは沖縄戦で戦死。生き延びた戦友がお父さん終焉の場所を案内すると申し出てくれて、朝からそのガマ(洞窟)を探している。艦砲で地形がかわり、なかなか場所が見つからない。

首里から糸満に撤退のとき、艦砲の破片で片腕を飛ばされた。止血はしたが腕が一本になると身体のバランスが悪く、まっすぐ歩けない。戦友は止血したところに石を結び重しにしたら歩けたと話された。

摩文仁でガマに入ったが、1平方に6トンもの艦砲が炸裂するなかで傷口にウジがわき、食料も底をついたとき「お先に」と言葉を残してガマから、鉄の暴風雨の外に出られた。


沖縄では軍が住民に集団自決を迫った。命を粗末にするなと軍人に助けられた。さまざな議論が終わらない。

当時、子供だった現地の方がわたしに語った。家族と別れてしまい、夜にひとり海岸の岩影に身を隠していたらアメリカ兵に発見され機銃掃射を受けた。照明弾(周囲を照らしパラシュートでおりる)で子供とわかり、夜明けまで照明弾を撃ち続け子供だから撃つなと伝えた。朝、僕の周りは照明弾の落下傘がたくさんあった。


戦禍の混乱のなか、指揮系統もあやふやだったかもわからない。人として判断を迫られる場面では、様々な判断が下されて当然。つまり、白か黒かの決め方ではおさまらないのが戦争とも言える。


沖縄におもいを馳せながら木曜日が終わった。