山口市内の配達 暑かった!

昨年6月14日は、ガッツ体操教室の体育館完成祝いが午後から現地で催され、祝辞を申し上げる3名の一人に指名された。

朝、シーサイド病院に会いに行った。ナースステーションの前、個室に移されドアは解放され様々な装置がベッド脇にあり容態の深刻さは空気でわかった。話しかけても反応はなく、自力で呼吸はできていた。反応はなくても手を握り長い時間を過ごした。次に来るときの覚悟を決めて部屋を出た。農園にもどり「今夜になると思う」家内と正志に話した。


お祝いの宴は盛大にすすみ、会食では家内が迎えに来るまで私らしく飲んで騒いだ。


夜中の12時ごろ家内の電話が鳴った。家内が手短に受けるあいだ、わたしは着替えをはじめた。家内は寝る前ビール1本飲んだらしいが車を出した。15日午前1時ごろ病院に着いた。駐車場に到着したとき「息を引き取りました」と正志から電話を受けた。正志と真砂恵家族は全員病室に揃っていた。


96年、母のうつわとして酷使に耐えたなきがらに、よく働いてくれた御礼。母の霊さまには これで楽になれたね。よう頑張った。と心でつぶやいた。母の苦痛がとれてよかったと思えた。7年の病院と施設生活、7年も時間があったから悔いのない孝行ができた。


元気な母が農園に来て「わたしの葬儀を今夜は決めよう」と葬儀のすべてをわたし夫婦に伝えた。家族だけの葬儀。金光教太秦教会(照美の嫁ぎ先 主人)に来てもらい葬儀。棺は一番安いものでよい。色々と母が決めたように葬儀をすすめた。中山さん鉛筆画の遺影。今村さんの骨壷。

母の終祭はありがたく終えた。


1年前を思いうかべながら、猛暑の山口市内を配達した。