母の働き

母の1年祭(96歳お国替)と納骨がちかくなり、区切りとして母を偲ぶ想いを文字にしている。それは母の霊殿に供え、子供たちにも渡す。葬儀のあと、祭主の金光教太秦教会長(長女 照美の主人)が、お母さんはやっと身体がなくなりこれから活躍されますよと話された。いま大学ノート30冊ちかい日記と俳句に目をとおしながら母を身近に実感しいる。

大学官舎でテレビの買えない家はわが家だけになった。近くの友達の家に上がり込み、夕方の番組を見ていたとき、お姉さんのピアノでテレビが聞こえなかった。それを言葉に出したとき大学教授の父親が「帰れ!貧乏人の子」と激昂した。

母子家庭も貧乏人もそうだけど、あの言葉と場面が残った。けれども、あの場面から学び出したわたしの背骨がある。母子も貧乏もわたしの力では変えられない運命。わたしは、本人の努力で変えられない運命を背負った人を責めない。馬鹿にしない人間になろうと決めた。

この背骨も、母と歩んだからこそ体得できた。

意外な、女らしい句を見つけた。

足早に  ピアス揺らして  春衣


きょうから水曜日の配達は正志が「やります」と言ってくれたので、母のことがだいぶ進んだ。


痛風は飲み薬と熱さまシートのおかげで靴は履ける。